横浜の中心部にほど近い西戸部町に、かつて「魔の池」と呼ばれた大きな池があったのをご存じだろうか。
その池の歴史はとても古いようで、いつ頃からあったのかはハッキリとしていないが、文明開化期である明治14~15年の地図にはハッキリと描かれているのがわかる。
この池はもともとは農業用のため池であり正式な名称はないものの、戸部刑場の囚人が近くの仕置き場で首を斬られるや、寺に運ばれる前にこの池で血を洗ったという言い伝えがあり、また事故や自殺などで水死する者が多かったことからいつしか「魔の池」と呼ばれるようになったのである。
この池は少なくとも大正9年(1920)まではあったようで、鬱蒼と茂る深い木立の間に突如現れる池の不気味さはたとえようがなく、聞くも恐ろしい伝説を数多く生み出したという。
この池にはもともと、白い大蛇が住みついていた。
やがて年老いる竜に変化してヌシとなったのだが、大正9年9月の大嵐の日、この池が決潰して村の家々を押し流すや19人もの犠牲者を出す大惨事となった事がきっかけとなり、たちまち埋め立てられてしまい、今となっては池の痕跡など全く残さない普通の住宅街が広がっているのみである。
もともと、この池のヌシは白龍弁財天として祀られており、最近の住宅地図でも、その白龍弁財天はハッキリと表示されているのが見てとれるのである。(画像は一部加工)
この白龍弁財天は、当初は「妙行尼」という尼僧がずっと守ってきたという言い伝えがある。
それから代々、尼僧が引き継いでくる習わしだったが戦後には廃れて地域の方々がひっそりとお祀りするのみであったという。
さっそく、その白龍弁財天にひと目お会いしようと訪れてみたのだが、その場所にはすでに白龍弁財天の祠はなく、空き地と空家の隅にただ一つの無縁塔が物さびしげに立つばかりであった。
白龍弁財天があった所は、ただの空き地となっており、今ではその痕跡すらない。
今では、この白龍弁財天はどこに行ってしまったのだろうか、うかがい知ることは出来ずお話しを聞こうにも通行人すらない状況であったが、今でもどこかの神社にでも合祀されて大切にお祀りされているであろう事を願わずにはいられないのである。
話は変わって明治45年(1912年)、現在の希望ヶ丘高等学校にあたる神奈川県尋常中学校の植物学教師であった松野重太郎氏は、池のほとりに見慣れない笹が自生しているのを見て研究を重ねたところ新種であったことが分かった。
この笹はヨコハマダケと名付けられたのであるが、通常の笹よりも葉が厚く、また硬さもあり、「メダケ」と「アズマネザサ」と中間の種である事が分かったばかりか、近くに刑場があり、池の水が血液の鉄分を多く含んでいたため変異したものと考えられているという。
現在はこの池の周囲の笹は宅地開発により失われてしまったものの、ヨコハマダケは松野重太郎氏の自宅跡(現在の都筑区川和町)と、南区の横浜市こども植物園に移植されて息づいているという話がある。
現在、池の周囲はすっかり開発されて民家が立ち並び、いつしか白龍弁財天もいなくなってしまって往時の面影を偲ぶよすがもないが、大正9年9月の19人の犠牲者には今でも願成寺に供養塔が建てられてねんごろに祀られ、わずかにかつて池があった時の秘話を今に伝えているのである。