みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

戸部くらやみ坂の悲話と外国人から日本を守った志士たちの墓(横浜市西区)

横浜の西横浜駅から桜木町駅にかけてのエリアは、低地にはさまれるようにして小高い丘が峰を連ねており、現在では住宅が密集する中にマンションが立ち並んでいる静かな住宅街である。

 

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そのうち、戸部郵便局のあたりから藤棚郵便局のあたりまでを結ぶ坂に「くらやみ坂」という坂があり、今となっては通る人も少なく裏道として機能した坂であるが、ここはかつては保土ヶ谷みちの一部であり、この坂を超えると神奈川奉行所があった紅葉坂に通じた。


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このくらやみ坂のある近辺には、かつて監獄があった。

明治14年の地図にははっきりとその存在が示されており、監獄の左下には別記事で紹介する「魔の池」も確認できる。

 
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これは、監獄というよりも横浜港開港と同時に設置された「戸部牢屋敷」というもので、後の横浜刑務所の前身である根岸監獄の、さらにまた前身である。

 

当時としては画期的で近代手設備を備えた牢屋敷であったが、それほど広いものではなく17人収容できる牢屋が8部屋のみというものであり、すぐに横浜港が発展して人口も増えていくと手狭になってしまい、増築のまた増築を繰り返すことになる。

 

その後、火事で焼けた横須賀懲役場が合併されて明治13年には延べ15000平方メートルとなる一台巨大監獄へと発展していったのである。

 

しかし、増え続けるいっぽうの囚人と老朽化の波には抗うこともできず、新しく根岸監獄が落成すると明治三十二年に移転していったのである。

 

その脇には今もなお「くらやみ坂」と表記された石碑が立っているのを見る事ができるのである。


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この「くらやみ坂」は、果たしてどのような漢字を当てるのか。それは未だにはっきりとした事はわかっていない。

 

「蔵止坂」「鞍止坂」「暗坂」などいくつの候補があるようだが、昔はこの坂があまりにもきつく、荷物を積んだ牛馬が休んだから「鞍止坂」、鎌倉時代にここを通りかかった源頼朝が、あまりの風景の美しさに馬を止めて眺めたから「鞍止坂」、樹木が鬱蒼として、昼なお暗きもの凄い場所であったので「暗闇坂」 などがあり、未だにその結論が出ていない事から、ひらがな表記にとどめてあるのだろう。

 

かつて、ここの「くらやみ坂」の日があるところは処刑場として機能しており、今なお石碑の脇には小さな祠がひっそりと建てられているのが見て取れるのである。


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かつて、ここには「南無妙法蓮華経」と陰刻された慰霊塔が立ち、その霊を慰めていたが、今となっては平沼にある久成寺の境内に移されて、ひっそりと道行く人々を見守っているのである。

 

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この処刑場では数多くの罪人が処刑されたことであろうが、その亡骸は近くの願成寺に投げ込まれた。そのうち有名な3人は、今でも願成寺に墓が残されて、今でも語り草となっているのである。

 

一人は鳶の小亀という者で「フランス水兵殺害事件」が舞台である。

慶応2年(1866年)2月、泥酔した2人のフランス水兵が、今の横浜公園にあった港崎遊廓で乱暴狼藉を働いたことが発端である。最初は静観していたものの見るに見かねた力士の鹿毛山長吉が取り押さえて、駆けつけた鳶職の亀吉が鳶口で殴打し1人を殺害してしまった事件である。

 

鹿毛山は追放されたものの、小亀が下手人として処刑されたのだが、小亀が処刑を前に市中引き回しとなったときには近隣の芸者や鳶職が道を埋め尽くすほど繰り出しては口々に木遺音頭を唄って冥土への花道を飾ったという事である。

 

当時、数多くあったといわれている外国人兵士の横暴に、ただ指を加えて見ていることしかできなかった庶民たちの喜びようは相当なものだったのだろう。

小亀は今でも願成寺の墓に眠っている。

 
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いっぽう、「鎌倉事件」は小亀の「フランス水兵殺害事件」とは趣を異にするものである。

元治元年(1864年)十月、江の島見物に出かけていた英国士官のボルドウィン少佐とバード中尉が材木座近くの鎌倉八幡宮の鳥居のそばで休憩しようと馬から降りた時、突然何者かに襲われては、ピストル一発を発射しただけで斬り殺されてしまったのである。

 

この事件に激怒した英国公使オールコックは、「もしも犯人を引き渡さない場合、英国政府は決して見過ごすことはしない」という激しい抗議をしてきた。

この抗議に幕府は驚き、四方手を尽くして探索、何人かの容疑者を捕縛して処刑したのである。

 

谷田部藩士清水清次は25歳、非常に足が速い剣豪であり、もとは盗賊であったとの噂まで立つ人物であった。


もう一人の間宮一は弱冠18歳、現在の港南区笹下にある梅花山成就院の三男であったが、清水の仲間として捕えられて処刑され、今は同じ願成寺の墓に並んで眠っている。

 

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このように、戸部のくらやみ坂では有名無名数多くの罪人が処刑されてその首が晒されたが、今ではくらやみ坂の石碑にも、その裏手の祠にもなんらの由来書もなく、そうと知らずに多くの住民が通り過ぎるところとなっている。


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しかし、いまここの祠や墓に手を合わせるとき、そばで一本のひなげしの花が風に揺れては罪人たちの無念の思いを代弁しているようで、特に義憤のもとに命を賭して戦った男たちの叫びがひしひしと伝わってくるかのような気持ちにさせられるのである。