みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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米軍機墜落事故による 塗炭の苦しみを味わった母と子の悲話(横浜市青葉区・中区)

東急田園都市線江田駅から西側、ゆるやかな坂を登って行ったところの住宅街の中に、訪れる人も少なくひっそりと木々に埋もれるようにしてあるのが、大入公園という小さな児童公園である。

 

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今となっては、ただ平坦な地面に遊具と砂場が並び、その周りを木々がうっそうと生い茂る、何の変哲もない児童公園であるが、この公園こそが昭和52年(1977年)9月27日に起きた、聞くのも悲しき悲劇惨劇の舞台なのである。

 

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先ほども書いた昭和52年の当時は、この近辺は山林を切り開いたニュータウン開発が進んでいる頃であり、事故から2年後の昭和54年の航空写真では事故の現場を中心に数軒の民家が立つのみである。

 

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この2年前は、もう少し家が建ち並び、新しく引っ越してきた家族たちがこれから発展していく街に希望を込めて、新しい生活を始めたばかりだったろう。

 

そんな昭和52年(1977年)秋の昼下がり、厚木基地を離陸して太平洋上の空母ミッドウェイに向かう途上だった米海兵隊のF-4ファントム機がエンジン火災を起こし、燃料を満載した状態でコントロールを失った。

 

 

乗組員2名は脱出してパラシュートを使い、現在の青葉区鴨志田近辺に着地して後に救助され帰還したものの、コントロールを失った機体は乗組員不在のまま飛び続けて5kmほど離れた現在の大入公園のある所の住宅地に直撃し、燃料を投棄していなかった事もあり大きく炎上して、周辺の家屋20戸あまりを焼失させ破壊したのである。

 

ただちに消防などによる懸命の消火活動と救助活動が開始されたものの9名が重軽傷を負い、周辺から駆け付けた住民の協力により車で病院に搬送されたものの、わずか3歳と1歳の兄弟2名が全身火傷により、翌日死亡するという痛ましい事故となった。

 

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いっぽう、その兄弟の母親であった26歳の女性は全身にひどい火傷を負ってまさに生死の境をさまよっていたのだが、子供はまだ生きており治療中という話を聞かされており、生きながらえさえすれば愛するわが子に再会できるという希望を胸に、壮絶なる皮膚移植手術を繰り返して治療を続け、一時はリハビリを行なえるまでに回復したという。

 

しかし、夫とはこの事故がもとで関係が悪化して一方的な離婚を突き付けられた挙句、事故から1年3か月たってからようやく「子供は事故翌日に死亡していた」事を聞かされたが、この事による精神的ダメージは計り知れないものがあった。

 

その後、半ば強制的に精神科単科病院に転院したものの、事故から4年4ヶ月たった昭和57年(1982年)1月26日、心因性の呼吸困難がもとで還らぬ人となったのである。

 

それから3年たった昭和60年(1985年)、この事故の犠牲者をモデルとして制作され、遺族から横浜市に寄贈されたブロンズ像「愛の母子像」が港の見える丘公園フランス山地区に設置された。


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横浜市の行政側は当初、この像の趣旨に対する説明板を設置することをかたくなに拒否した。理由は都市公園法に触れるというもので、遺族側が「あふれる愛をこの子らに」とした台座の銘文ですら同法に抵触するとして認めなかった。

 

遺族も納得せず話し合いは平行線が続き、結局は「この」を削った「あふれる愛を子らに」という銘文のみが添えられたために、この母子像がどのようないきさつで制作され設置されたのか、この母子像のモデルがどういう人であったのかは余程の予備知識がない限りは、知る術がなかったのである。

 

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この実情は一部の市民から大きく批判されるに至り、神奈川新聞なども論陣に参加して世論の様相を見せると、平成18年(2006年)1月に事件の概要を簡潔に記述した碑文が設置された。

実に、像の設置から碑文の設置まで約21年の歳月を費やしたのである。

 

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いま、事故現場から遠く離れた港の見える丘公園には優しく微笑む母親の膝に乗る子供と、母親に寄り添うように座る姿の母子像が言葉もなく座り続けている。


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像の傍らの説明板には、生前に海が見たいと願っていたというが、これは母親の願いだろうか。

 

この3人のブロンズ像は、木々の合間から射し込む陽を温かく浴びながら、悄悄とした木立の奥に臨む横浜港を、じっと見つめ続けている。


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いま、この母子像の背後に立って共に海を眺めるとき、なんの罪もない幼子が無残に命を奪われた事も知らず、夫には見捨てられて失意の中にも子供に再会する事にただ一つの希望を託しながら、またもや裏切られて命を潰えた若い母親の無念と哀愁が銅像の背中より伝わってくるかのようで、流れる涙を禁じ得ず思わず手を合わせるのである。

 

 

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