地下鉄の港南中央駅を降り、横浜刑務所を越えて坂を上り、環状2号線を渡るとひときわ小高い丘の上に笹下中央公園という公園がある。
この公園の近辺は以前にも紹介した雑色杉本遺跡が近くにあり、またこの台地上は笹下城を築いた北条家家臣団間宮家の家臣である北見掃部の館跡があったところでもあり、その歴史は古い。
この笹下中央公園の近くには浄土真宗本願寺派の東福寺という寺があり、山号を杉本山(すぎもとさん)、院号を三月院(さんげついん)と号し、古くは親鸞上人が東国布教のとき、3ヶ月逗留したために院号を三月院とする伝承がある、由緒正しき古刹である。
この東福寺はもともと、天禄3年(972年)に天台宗の僧であった護妙法印が、比叡山より行基作「薬師像」を背負って小さな草庵を結んだことが起源とされている古刹である。
天禄3年(972年)といえば、平安時代の最盛期を迎えるころで、京の都では絢爛豪華な公家文化が花開いていたころである。
しかし、永歴元年(1160年)の真夏の日に落雷により堂宇は火災となり灰燼となると、しばらく荒れ果てて村人により小さな薬師堂が建てられる程度であったが、時は下って文治5年(1189年)に密厳という僧があまりの衰退ぶりに嘆き一念発起、草庵を結んで中興させると、密厳の弟子であった密弁が親鸞の法弟となって海弁という名に改めると同時に浄土真宗に改宗して現在に至るのである。
杉本山という山号は中興の祖である、北条家家臣の笹下上城主間宮氏の配下である北見掃部がこの近くの杉本と呼ばれるところに住んでいたからであり、さらに親鸞上人が東国布教の長旅の折にこの寺に3ヶ月にわたり逗留したため三月院という院号を与えられている、実に由緒深い古刹なのである。
この寺の境内の片隅には、小さな石碑がひっそりと建立されており、その表面には花塚と陰刻されているのであるが、この花塚はかつてこの里で暮らした人々の思いを今に伝えているのである。
このあたりは、明治から大正時代にかけては一面に畑と丘陵が広がるのどかな場所で、その当時には戦国時代から続き親鸞上人や明治天皇などの皇族までが観梅に来られた杉田梅林が残っていたころであろうか。
当時、この笹下の雑色、関と呼ばれた地域は横浜の花どころといわれ、ところどころに花を育てる光景が見られ、花かごにはたくさんの花を背負い横浜の街や鎌倉まで売りに行ったのだという。
村人たちは、自らを潤してくれた花々の精霊に感謝し、この花塚を建立して供養したのだという。
もともとは石組みを組んで塚のようにしてあり、その中央に花塚の碑が嵌め込まれているといった具合であり、今の何倍も立派であったが、いつしか塚は削り取られて今の淋しい姿になってしまった。
日も傾き夕暮れになっていくころ、拝む人もなく鐘つきロボットが無機質につく東福寺の鐘を聴きながら花塚の前に立つとき、今となっては忘れ去られようとしている、いにしへの人たちの花に対する崇敬が少しでも伝わってこようか。
ここにも、また抗うことの出来ない時の流れの移り変わりがそくそくと感じられるのである。