相鉄いずみ野線のいずみ中央駅を降り、駅前の長後街道を藤沢方面に向かって歩いて行くと、やがて境川を渡り藤沢市へと入る。
そのまま南西に進んでいく道を歩いて行くと、やがて路傍にたたずむ古いお地蔵様を見つける事ができる。
今となっては歩く人もまばらで、ただ大型トラックが時折砂埃を巻き上げては通り過ぎて行く街道ではあるが、このような場所にも今にも伝わる江戸時代の飢饉の悲話が込められているのである。
説明板によると、時は明和4年から5年。西暦にすれば1768年から1769年、徳川10代将軍家治の頃であった。
もともと江戸時代は現代よりもだいぶ寒冷な気候であり、有名無名あわせてもたびたび飢饉が発生し、その度に多くの江戸の民が食糧を求めて江戸を捨て、農村地帯をさまよったという。
この地蔵が建立されたのも明和4年から5年の飢饉の時期であり、伝によればこの地に住む百姓が朝早く目を覚ますと、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
こんな明け方に何事かと外に出ると、通りには飢えのあまり女が息絶えており、そうとも知らない赤ん坊は冷たくなった母親の乳を懸命に求めて吸っていたという事である。
この姿を哀れに思った村人たちは、この母親をねんごろに弔い、行く宛のない哀れな亡者を極楽浄土へと導く地蔵菩薩をこの地に祀り、名も分からぬ女の菩提を弔ったのであるのだという。
その足元には、明和五年の年号とともに地蔵講中の文字が読めるが、石は経年のため劣化して薄く剥がれかかっており、いずれはこの文字も読めなくなってしまうのであろう。
その脇には、誰のものやら戒名すら判読できぬ、うら悲しく合掌する観音像の墓石が佇み、よりいっそうの悲哀をさそうのである。
藤沢市史などの文献をみても、その赤ん坊がその後どうなったのかは全く記載がなく、その運命を知る術も無いのであるが、飢えから逃れては赤ん坊を抱きしめ、着の身着のまま旅を続けた末に倒れた母親の無念の中の悲哀と、親なし子となった赤ん坊の運命を考えるうち、生きていくことの非情さにただただひとすじの涙をさそうのである。