磨崖仏(まがいぶつ)って知ってますか?
仏教などにおいて、崖に穿たれた仏像の事です。アジアの仏教国にはたくさんありますが、日本にも国宝となったものや、全然有名じゃないのに素晴らしい磨崖仏がたくさんあります。
そこで、今日は天気もいいし、寒さも和らいだので、原付に乗って横浜に2つだけある磨崖仏を訪ねる旅へと向かいました。
横浜市の磨崖仏は両方とも金沢区にあります。金沢区は鎌倉時代、日本の中心である鎌倉に近い六浦港が栄え、徒然草の作者として、誰しもが学校の授業で一度は聞いたことがあるであろう兼好法師が庵を結んだという伝承のある上行寺東遺跡や、北条氏による称名寺及び金沢文庫が整備され、鎌倉とは朝比奈切通しで結ばれて大変な賑わいを見せたといいます。
古来、砂鉄を産し、これが「かねさわ」(のちに「かなざわ」)の語源ともなり、鎌倉時代初期の釜利谷の領主であった畠山重忠は、秩父地方から職人を移住させ、武具などを製作させたともされています。
これほどまでに歴史も深く、多くの人々が行き交った所であれば磨崖仏が彫られるのも決して不思議ではないのです。
まずは第一番目の目的地・白山道奥磨崖仏に向かいます。
こちらに行くのは20年ぶりか・・・ 昔は少し顔の輪郭が残ってましたが、今はいかに。
実際に訪れてみると、金沢区の山側の方はいかに起伏が激しいかが分かります。
みうけんは原付でブィーーーーーンと上がる事が出来ましたが、手押し車を押したおばあちゃんがハァハァ言いながら無心に登っていました。大変だろうなぁ。
こんな、宮崎アニメにでも出て来そうな光景の街です。登って、下って、また登って・・・正直、歩きだと相当いい運動になると思います・・・みうけんは歩きたくないですが・・・。
でも、横浜ってこういう光景が多いし、横須賀にでも行こうものなら、もっとすごい坂がたくさんあります。
鎌倉や金沢区などでは、このように崖を穿って石仏を安置してあるのをよく目にします。これがもともと「やぐら」なのか、それとも地蔵堂として掘った穴なのかはわかりませんが、穴の周りにだけからんだ草がとても印象的でした。
このお地蔵さまの位置は→Google マップ
さらに奥深く、細い道をぐんぐん進んでいきます。
車であったら、対向車が来たらすれ違うのも困難なくらいです。そんな理由もあって、何十年か前の若かった頃に行ったきりで、それ以降はなかなか足が向かなかったのです。
そして、見えてきたこの看板。
これは看板の裏面です。
ぐるっと回りこんで、表面へ。
意外にも、詳しい説明板が掲げられていました。
白山社は白山堂とも呼ばれ、南北朝~室町時代には称名寺の管理下におかれ、その末寺となっていました。
堂社の旧位置は不明ですが、北条氏が鎌倉と金沢の称名寺とを山越えに往復する古道が、このあたりを通っていたことは疑いありません。
この古道は「白山道」と呼ばれ、鎌倉時代後期に瀬戸橋ができる以前は、鎌倉と称名寺の往復に使われていました。
こ山腹に刻まれている磨崖仏は、その旧跡を推定するための好資料であり、周囲が削平されていますが、現存顔面長4メートル、中世末期の彫刻です。
また、応仁年間(1468)に鎌倉大塔宮からこの地に移った白山東光寺に関するものとすれば、御姿は薬師如来をかたどったものでしょうか。
実際、この奥の行き止まりよりもっと先に続くケモノ道は白山道古道と呼ばれており、古くは鎌倉と金沢を結ぶ道として多くの人々が行き交った道でもあります。
こちらが、その磨崖仏があるとされる崖。
むむむ・・・・
さっぱり分からん(゚Д゚;)
やっぱり、ほぼほぼ消滅してしまったようで・・・
写真測量図が載っていましたが・・・
微妙に目と鼻が分かるような分からないような・・・
上のデータからナニをどう推定したか分かりませんが、復元するとこんな感じらしいです。
もう一度、オノレをむなしゅう心を無にし・・・・
見る!!
見る!!
見る!!
・・・
・・・
・・・
やっぱり分からん。
・゚・(ノД`)・゚・。
このあたりは加工はしやすいが、もろくて風化しやすい凝灰岩なのであまり残っていないとは聞いていましたが・・・ 金沢区、そんな説明板建てるならもっと本腰いれて保護してやってよ・・・ もう遅いかもだけど。
帰り道、ちょっと気になる路地を発見。
何が気になるって、入口にポツンと手水鉢が置かれてるんですもの。
という事は、神社かお寺があるって事ね。どうやら慶応元年(1865年)のものらしい。今から154年前、江戸幕府が崩壊する3年前のものです。
車だったら絶対気づかないであろう小さな発見。すぐに停まって確認できるのも原付の利点です。
みうけんはこういうの見逃しませんよ!!
細い階段を上がって行くと、そこは小さな神社でした。
こちらも先ほどのお地蔵さんのように、崖に穴を穿って作られています。
社殿はこぢんまりしており、扁額もないので、これだけでは神社名が分かりません。
しかし、周囲には比較的新しい旗に「白山神社」の文字。
白山神社は白山妙理大権現でもあり、すなわち仏教の十一面観音が日本の八百万の神に姿を変えた 本地垂迹(ほんじすいじゃく)のあらわれである九頭龍王でもあるとして、全国で篤い信仰をうけましたが、明治の廃仏毀釈と神仏分離によってその同一性を否定されてしまい白山神社となってしまったとされます。
白山神社は九頭龍王に関係があることから水源地にもよく祀られ、その反面でかつての被差別部落の鎮守としても祀られたため、白山神社という名前を隠してひっそりと祀られているケースが横浜や鎌倉にも多くみられます。
こちらもその例によってなのか、鳥居にも入口にも名前の表記はないのですが、最近建てられたと思われる石碑にはしっかりと「鎮守 白山妙理大権現」の記載がありました。
周囲には小さな社や不動明王が祀られていますが、今でも地域の人によって大切にお祀りされているようでした。
さて、次なる目的地である鼻欠地蔵(はなかけじぞう)へと向かいます。
ここは白山道奥磨崖仏から原付で10分くらいのところ。現在の県道23号線、かつての六浦道沿いにあります。
こちらは看板をすぐに見つける事が出来ました。
しかし、この角度では磨崖仏の姿が良く分かりません。
道を渡ってみました。
なるほど・・・ 白山道奥磨崖仏よりは・・・
分かりやすい・・・かも・・・
大きさを表現するため、通りすがりの人とツーショット!!
一つ残念だったのが・・・
この下の絵によると、お地蔵さま座ってますね。優しそうなお顔で、あぐらをかいて。
そう、あぐらをかいて・・・
あぐらをかいて・・・
あぐら・・・
横浜市、あぐらの足を削りましたね
(メ ̄Д ̄)!?
みうけんは横浜は大好きですが・・・
小机城のど真ん中に第三京浜を通したり、「広く人々の信仰の対象となっていたことが分かります」なんて看板に書いておきながら、信仰の対象の足を削って道路作ったり・・・
本当に、横浜市政のやる事はなにもかもひどすぎます。
歴史だけではなく、中学校給食も、カジノも、歴史破壊も、砂浜破壊も。
ここだって、一度壊してしまったら二度と戻らない大切な遺跡をいとも簡単に・・・
ちなみに、上記の「江戸名所図会」にはおひざ元に小さなお地蔵さまもありますが、そちらは発見できませんでした。
で、ちょっと気になったのが、鼻欠地蔵の横にあるこの路地。
これは、この六浦道から白山道へいたる街道の枝道。
今では単なる行き止まりの道なんだろうけど、この先に何があるかちょっとワクワクしまして。
車両の通り抜けもUターンも出来ないそうですが、原付なら大丈夫とばかりに、どしどし登ってみました。
むむ、なるほど。
これはセレナ(原付を買う前のみうけんの愛車だった)では絶対に入れない道だね。
道はどんどん細くなりますが、かろうじて舗装されています。
こんなところ舗装するの大変だったろうなぁ。
やがて舗装も途切れ、登山道だかケモノ道だか分からない道へとなりました。
まぁ原付ならまだ進めますが、なんとなく納得したので引き返します。
今日の探索はこれでおしまい。なかなか充実した一日でした。
天気もいいので逗子~鎌倉の海岸沿いに帰ろうか、そういや食べログで気になっていた
パン屋(アンドブレッド)が逗子の池子にあったな・・・家族に買って帰るか・・・と池子に向かうも、パン屋はお休み・・・ 仕方ない、東逗子の駅から回って帰るか。
そういや、このあたりに韓国人の義弟が住んでるんだよな・・・なんて考えながらチャリチャリ走っていたら、なんと義弟が乗った車を交差点で発見ー!!
急きょUターンして窓をゴンゴンしたら、かなりビックリしていました^^
でも、あさって一緒に飲めるね!! いつまでも大切な弟です。
そして逗子の海を眺めながら、鎌倉の海を眺めながら、鶴岡八幡宮にバイクを運転しながら軽く一礼して、自宅に帰ったのでした。
あ、今回巡った「白山道奥磨崖仏」と「鼻欠地蔵」はみうけんが愛するサイト「はまれぽ」でも紹介されています。みうけんが調査依頼したんだけどね!!
こっちの方が歴史的に詳しく紹介されています 笑
キニナル方は、そちらもどうぞ!!