2021年7月、ちょっと沖縄旅行へ行ってきました。
沖縄は神奈川県の次に好きな県ですが、場所柄たまにしか行けないのがタマにキズというところでしょうか。
ただ、今回はたまったマイルで行ったので飛行機代は無料、職場の保養所を使ったので宿泊費は無料、福利厚生によりレンタカーは半額、とかなり安く旅行できた・・・はずでした。
結局、アレコレ飲み食いしたり買い物しすぎて高くついちゃったんですけどね 泣
さて、楽しい沖縄旅行の最終日、あまり那覇空港から遠くに行けないということで、沖縄県の一之宮である波上宮に行きました。
小ぢんまりした神社ですが、一の宮としての風格はじゅうぶん。
狛犬ではなく、両脇にひかえるはシーサーというのも沖縄らしいです。
まぁ、実際はたいして違わないんですけどね。
狛犬もシーサーも、もともとは中国の獅子で元はライオンです。
せっかくなので、しばらく中断していた「全国一の宮めぐり」の御朱印もいただきました。
全部制覇できるのはいつの日になることやら・・・
定年後は細君といっしょに、旅行がてら巡れるといいな。
オリジナルな御朱印帳も買いました!!
いやはやなんとも、このイカにも沖縄らしい模様が素晴らしい。
さて、この波上宮は海に面した高台の上にありますが、その下の砂浜は那覇市内で唯一の海水浴場、波の上ビーチです。
目の前に道路の高架があるので眺めは良くないですが、それでも海は綺麗だしクラゲネットがきちんと設置してあるので安心して利用できます。
昔はゴミだらけでどうしようもないところだったらしいですが、今ではすっかりきれいになって、観光客よりも地元の人々に愛されているようでした。
さて、この波の上ビーチの端には、大きな岩山があります。
この岩山の上に波上宮がありますが、こうして下から見るとまったくわかりません。
この岩山の崖には、穴が穿たれています。
自然にできた「ガマ」と呼ばれるものの一つであると思います。
岩山に洞窟がある、というのは沖縄県では珍しいものではなく、古くは人々の住居となり、沖縄戦では壮絶な闘いや自決の場となり、戦後の貧困の時代も永らく人々が住む時代があったということです。
よくよく見ると、この「ガマ」には何か不思議な雰囲気が漂っています。
なにやら、ただの穴とは違う近寄り難い雰囲気がありました。
そして、その入り口の下には何か置かれているのが目につきました。
コレは一体なんだろうかと近づいてみると、そこに置かれていたのは腐ってドロドロになってしまったカットフルーツ。
おそらくマンゴーだと思います。
そして、どんぶりの中には干からびて小さくなってしまったご飯が入っていました。
そのご飯には、箸がきちんと立てられています。
その脇にも小さな磁器の皿があり、何かが載せられていた形跡がありました。
いつもだったら、こういう洞窟を見ると、中に入ってみたい衝動に駆られます。
実際に入るかどうかは別ですが、しかし今回だけはあまり近寄ってはならない、なにか歓迎されていない何かを感じました。
そのため、外側の、しかも結構遠く離れた位置からしか写真に納める事はしませんでした。
本土に帰ってからも、どうしてもあの穴が気になる。
なにか心にひっかかる。
そんな思いで、夜を徹して調べたところ、あの穴は「波上洞穴遺跡」という古代の墳墓であったそうで、今なお奥には「御嶽」(ウタキ)と呼ばれる神域がひっそりとお祀りされている「らしい」、(実際に中を見ていないので真偽は不明)そうです。
もともと、みうけんは「御嶽」といったら山の中の密林にあるのだろう、と思っていました。
しかし、実際は洞窟の中にあったりする場合も多かったそうです。
さらに調べていくと、戦後のどん底の時代、多くの貧しい人たちが住み、亡くなって行った場所であるという事もわかりました。
特に、沖縄戦で親を失った浮浪児、精神を病んだ者、またムラを焼かれても他のムラに馴染めなかった者たちは社会の仕組みから排除され、山の中や草むら、スラムの片隅、場合によっては洞窟や亀甲墓の中に居場所を見出していた例もあったといいます。
当時、「波之上旭ガ丘」「波上崖下」と呼ばれた波之上ビーチ。
現在となっては目の前を高速道路の高架が通るので眺めはよくないですが、砂浜はすっかり綺麗に整備され、令和となった現代は多くの若者たちが楽しそうな声を上げながら水しぶきを飛ばしています。
その波之上ビーチがかつてどのような状況であったのか、沖縄タイムスの記事を引用させていただきました。
海面に浮かぶ汚物はタバコの箱、ビールビン、ぼう切れ、紙くず、竹切れなどで、チリ捨て場のようです。
中には、ネコ、犬、ネズミなどの死骸も浮いていることもあるそうです。
このような汚物は一度沖に流しても、また波によって海岸にうち上げられるのでやっかいです。
また海水浴場で一番危険なものはビンのカケラ、空カンなどです。
これによってケガをする人もいると、子どもたちは話していました。
名護高校H君の話/海はいいとしてもプールはひどいですよ、掃除をしているといっても中の水はにごってノリが浮いているのですからね。
ちょっとプールでは泳ぐ気になれませんよ。
汚物が多いのは右に泊港、左に那覇港があるためではないでしょうか。
(1960年7月14日)
現在の波之上ビーチからは想像もつきません。
さらに、こんな記事もありました。
洞窟に忍びよる死の影/波之上/旭が丘で二人目の悲劇
二日未明五時ごろ、那覇市波之上旭ガ丘の洞窟住いをしている住所不定無職○○○○さん(二九)が病死した。
付近の話によると、○○さんは、三月程前から洞窟住い。
その間肺結核を患って寝たっきり、紙屑拾いの収入で生計をたてている同居人、△△△△さん(五一)の世話になっていたもの。
これまで何度となく市役所や警察へ救護するよう連絡したが取合ってもらえずこの悲劇となった、と同居人の△△さんはなげく。
こういうケースは前にもあった。□□□□さん(五六)といい、市役所が腰をあげ赤十字病院に入院手続きをとったときはすでに手遅れ、浮浪の精神異常者に見まもられて息を引き取ったという。
行路病人の悲劇はこれで二度目とあって付近の人々は、社会問題として逆境にあえぐ薄幸な人々の救護強化を望んでいる。
同居人△△△△さんの話
これまで何度となく警察や市役所に連絡したが取合ってくれない。
三週間程前やっと社会課の方がみえ赤十字病院で診断の結果、肺結核と分ったが収容施設がないとの理由で洞窟にもどってきた。
何べんとなく無駄足を踏み苦労が報いられた、と思うとこの始末だ。なんとかならぬものか。
西武門[にしんじょう]交番の話
訴えのある度に本署を通じて市役所へ連絡している。
決して見殺しにはしていない。
とかく行路病人というのは市町村役所の主管だ。
警察は実情を通報するのが職分、○○さんの場合も何度となく文書で報告した。
那覇市社会課長◎◎◎◎さんの話
○○さんのことは警察からの連絡で知った。
早速係をおくり、三週間前診断もした。
ところが収容施設がないため具志川村にいた妹に身柄を引渡した。
話によるとその後二人とも勤め先を追い出され、真和志市三原にいる叔父の元に移ったと聞いていたがどうしてまた洞窟に戻ったのか分らない。
○○君の場合は身寄りもいるのだから家族が面倒を見るべきだ、社会課で取扱う行路病人にも該当しない。
だが私としてはできるだけの手はうった。
(1957年12月1日)
救われたおばあさん/死の直前から
福祉事務所や市職員の世話で
那覇福祉事務所と那覇市役所の親身の世話で死線を脱して更生の道を見出した一老母の明るい話がある。
名護町宮城区○班○号○○○○さん(六〇)は生きる望みも失いまた持病の頭痛も高じて、さる八月ごろ波上北側崖下の壕内二十五米奥で断食して死を待っていた。
その月の二十六日にそれを知った那覇署から那覇市役所に連絡があり、早速救急車で赤十字病院に入院させた。
そのときは強度の栄養失調で骨と皮ばかり、言語障害を起しすでに死の直前だった。
それから二ヵ月余の手厚い看護と那覇市役所と福祉事務所のあたたかい心づかいにすっかり元気をとり戻した○○さんは、昭和八年ごろ離婚して若狭町の嫁ぎ先からでて不幸な人生がはじまった。
戦後名護から那覇に来て転々とし、落着きのない生活をしていた。
そうしているうちに生きる気力も失い人手をわずらわさないよう壕で死ぬことを決意したという。
入院するときに丸坊主にされた髪もいまはすこしのび顔色もよくなり、二ヵ月前のおばあさんとはどうしても思えないと係の市役所社会課の△△△△氏は語っている。
市役所が繰返し支弁した費用はざっと百六十ドル。
○○さんは身寄りもいないので福祉事務所と相談して近く更生園(ママ。本来は「厚生園」)に送る準備を進めている。
○○さんの話 ひどい頭痛に六年前から悩まされていますが、こんな苦しい思いをするよりは、いっそ死んだ方がよいと壕の中で断食しました。
だされたときはどうしていらないことをしてくれたかと腹立たしく思いましたが、元気になったいまでは生きてほんとによかったと市役所や福祉事務所の人びとに感謝しています。
まだ少々頭は重いですが、更生園に行って静かに生活したいと考えています。
(1958年11月12日)
岩穴の中で野宿生活/よるべのない○○じいさん
各家庭では今年もよいお盆を迎えようと、おそなえ物などに大わらわである。
ところがここに、あたたかい家庭にも恵まれず、日々の食べ物にもありつけない放浪の生活を送っている孤独な老人がいる。
那覇市楚辺俗称フチサー森の岩穴に住んでいる○○○○(七一)がその人。
○○さんは那覇市西新町の生まれで、戦前ハシケの仕事をして人並みの生活をしていたという。
六人兄弟(女二人)の四男であるが、二十一歳のころ両親を失い、兄弟も一人のこらず死んでしまった。
妻は二年ほど前、病気でなくなり、ひとり娘もとついでしまった。それいらい一人ぼっちの生活がはじまった。
戦後はライカム(琉球米軍司令部 (Ryukyu Command headquarters))でカーペンター(大工)をしたり、那覇市衛生課に働いていたが年をとるにつれて働けなくなった。
最近まで石川市の妻の実家でほそぼそと暮していたが、さる三月謝刈に住んでいる娘をたずねて家をとび出した。
ところが娘の家もすでに子供三人ができて精いっぱいの生活、○○さんの世話には手が回らない。
○○さんは「私が世話になると負担が重くなる」とすぐ娘の家を飛び出た。
それからが放浪のはじまりである。
六月に現在住んでいる岩穴を見つけ、自分で板切れを集め床をしき雨もりの中で暮らすようになった。
それまでは足にまかせてさすがいの野宿生活をしていた。
今は鉄クズを集めてスクラップ屋に売ったり、貝を取って市場で売ったりして生活のカテにしている。そのかせぎは多いときで一日二、三十セント程度。
暴風雨とか体の調子の思わしくないときは、ミソを半斤位買ってきて水にうすめ、食べている。
ひどいときはミソとなま水で十八日間を過ごしたそうだ。
○○さんは、素直な人柄で隣り近所からのうけもよい。
朝早く水をもらいに行くときは、にぎりめしをいただいたり、お茶にさそわれてよもやま話にふけるときもある。
茶のみ話ではきまって昔の思い出を語っている。
ただ寂しいのは三人の孫を見られないということで、謝刈までの往復二十六セントのバス賃がなくがまんしているという。
○○さんの話
私は年ではありますが、まだまだなんとかやって行けると思います。
たよりになる身うちがなくて、仕方なく野宿生活をしている。
娘も生活に追われているのでやっかいになりたくない。
つらいこともあるが一人暮らしも楽しいものです。夜はローソク代がなくて暗いのが悩みです。
(1960年9月3日)
○○さんに愛の手ぞくぞく/感謝の涙ぽろぽろ
婦人や少年、外人からも
よるべなく、岩穴の中で野宿生活をつづけている孤独な老人(既報)に同情が集まり、ぞくぞく贈り物が本社に届けられている。
三日あさ本紙朝刊で、那覇市楚辺通称フチサー森の岩穴に住んでいる○○○○さんに贈ってほしいと、一婦人から現金三ドルが届けられた。
この婦人は名前を聞かれても「名のるほどのことは…」と、つげずに出ていった。
本社では早速○○じいさんをたずね金を手渡したが、じいさんは「見知らぬ方からそのような大金をいただくとは…」涙を流して感激していた。
またひるには自分のこづかいをためた金で買ったと、ローソク一袋と五十セントを届けた一少女、ソーメン、ソーセージ、ローソクを届けた無名の婦人、衣類と金二ドルを届けた楚辺二中前の△△△△さんなど、方々から同情が寄せられている。
本社ではきょう四日あさ、これらの贈り物を○○さんに届ける。
なお三日ひる二時ごろ外人夫妻が○○さんをたずね、夏ものワイシャツ五枚、オーバー一枚、カン詰め、コンロ(小型)などを贈り、○○さんを勇気づけた。(1960年9月4日)
かつての沖縄では、こういう話はたくさんあったそうです。
本土でも戦後すぐの時代は、崖に掘られた防空壕を住処にしている人などもいましたが、このようにきちんと新聞記事になっているという事は、それだけ人々の関心も高かったのでしょうか。
ただ、唯一の救いであったのは、このような人にも市井から支援の手がぞくぞくと届いたということです。
この優しさは、ウチナンチュ特有のものなのでしょうか。
話を穴に戻しますが、近くには、別の穴もありました。
昔はもっと深かったそうですが、いつしか砂に埋まってしまったそうです。
このような穴が、戦後しばらくしてからも人々の生活の場であったとは、本土でも景気のよかった昭和後期に生まれたみうけんには、なかなか考えられないことです。
ここで寝るにしても、沖縄特有の強力なヤブ蚊にさいなまれ、寝られたものではなかったでしょう。
もし、あの戦争と沖縄戦がなかったら、沖縄は現在どのような姿になっていた事でしょう。
物言わぬ洞窟が見下ろす波の上ビーチで何も知らずに泳ぐ我が子を眺めつつ、かつてこの地で確かに生きてきた人々に思いを馳せ、これからも沖縄に平和がありますようにと祈りを捧げたのです。
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