鶴見川から分岐して町田の方へと向かう恩田川の流れを遡っていくと、海側の岸に町田市成瀬クリーンセンターの大きな建物が見えてきます。
これは町田市の中でも規模が大きい下水処理場ですが、その裏手には住宅街の中に埋もれるようにして、こんもりとした茂みが見えてきます。
この中に、陸軍歩兵軍曹である中里好治氏の墓があります。
中里好治氏は、この成瀬の出身で、こよなく文学を愛する青年だったそうで、現在でも、この近所には立派な実家が残されています。
当時、明治22年制定の徴兵令が敷かれ、満20歳の男子から抽選に当たったものは3年の兵役を受ける事になっていました。
中里好治氏は抽選に当たらなかったものの明治37年(1904年)の日露戦争の勃発によって状況が変わり、ここに従軍することとなったのです。
帝国陸軍第1師団第1連隊第10中隊において、陸軍歩兵軍曹(戦死時は上等兵)として勤務し、戦地からも頻繁に手紙を送っては家族や友人と連絡をしていた中里好治氏でした。
しかし、その一方で戦線は膠着し、ことに乃木希典司令官と伊地知幸介 第3軍参謀長による要塞地帯への突撃作戦の繰り返しはただ戦死者を増やすばかりのあり様でした。
難攻不落の旅順要塞に対する第3次総攻撃では、東京の第1師団には松樹山、金沢の第9師団には二龍山、善通寺の第11師団には東鶏冠山を攻撃させる事となりましたが、その先陣の突破口を開く決死隊として各師団から精鋭が選抜されて3000人を超える「白襷隊」が結成されたのです。
コンクリートで築かれた堅固なトーチカ、そのいたるところに設けられた銃眼には機関銃が据えられ、堀の中に入ってくる敵軍を一人残らず殲滅するという、まさにアリジゴクのような「地獄の永久要塞」とも言われた旅順要塞の堀の中に夜陰に紛れて決死隊は潜入していきますが、これを待ち受けていたロシア軍は四方八方からサーチライトを照らしつけ、機関銃の猛射撃を浴びせます。
この惨状については、ぜひとも名作映画「二百三高地」をオススメします。
この、旅順要塞の砲火を一斉に浴びて斃れていく将兵の中にいたのが、この中里好治氏その人だったのです。
実に、明治37年(1904年)11月26日の事で、頭部を機関銃弾が貫通したことによる即死。
享年24歳の若き命でした。
死後、中里好治氏は2階級特進のうえに金鵄勲章を授与されます。
中里好治氏は、天国でこの金鵄勲章授与をどのように見守っておられたのでしょうか。
この日露戦争の勝利によって、世界最強のロシア帝国を打ち破った弱小国日本は、世界中を驚かせ、特に白人優位主義の下で植民地として、奴隷として虐げられていた有色人種たちに大きな夢と希望を与えました。
これが幸か不幸か、過大な自信と列強の警戒を呼び覚ます事となって悪夢の大戦である第二次世界大戦へと進んでいく事にもなりますが、中里好治氏に代表される将兵ひとりひとりの決死の覚悟によって、現在の日本があることを忘れてはならず、その日露戦争の精神はいまなお世界中で語り継がれているのです。