地下鉄の高島町駅と桜木町駅の中間にある雪見橋交差点は、今となっては交通量も甚だ多い神奈川県の新横浜通りの途上にあるが、その雪見橋交差点から上がっていく坂は岩亀横丁(がんきよこちょう)と呼ばれる昔ながらの商店街であり、特に飲食店や喫茶店などが多い印象を受ける。
その岩亀横丁を上っていくと、店と店の間にひっそりと幟旗を掲げる稲荷社があるのだが、これが横浜の悲しい歴史と悲話を今に伝える岩亀稲荷のお社なのである。
時は開国と文明開化へ向かい、まもなく王政復古の明治の代となろうという幕末のころ、現在の横浜スタジアムと横浜公園となっているあたりは一大歓楽街であった。
港崎遊郭と呼ばれた外国人向けの遊郭であったが、幾度かの大火で灰燼と喫して現在の高島町、岩亀横丁あたりに移転することとなる。
今では横浜駅周辺とみなとみらい、野毛などに挟まれて存在感も薄い高島町界隈であるが、当時は東海道から関内・野毛、保土ヶ谷宿へと結ぶ重要な交差路でもあったのであるから、道という道には江戸へ向かう人、東海道を下る人、保土ヶ谷宿から大山へ向かう人などが行き交い大変な賑わいであったろう。
そこに移転してきたのが幕府公認の遊郭であった「岩亀楼」であり、横浜を訪れた外国人船員が行き交い、その奥にそびえる三層矢倉式の遊郭は紅色の提灯を並べて大変に艶やかで美しく、道行く人は必ずや立ち止まって見上げるほどであったという。
その岩亀楼には、美しく気高い知性を備えた絶世の美女とまでうたわれ、いちやく有名となった喜遊という遊女がおり、その喜遊はのちに劇のモデルにまでなるほどであるが、この遊女を一目見て気に入ったアメリカ艦隊の軍官が彼女を身請け(金を出して遊女を買い取ること)してアメリカに連れ帰ろうとするや否や、喜遊は激しくこれを拒み、自らの首を掻き切って壮絶な自害をして果ててしまうのであった。
この岩亀横丁の一角には、かつて遊女たちが病にかかったときに静養する寮があり、その片隅に祀られていたのがこの岩亀稲荷である。
今となっては店や家屋の間の細い路地を縫うようにして歩いて、ようやく到達できるような場所である。誰かに教えてもらわなければなかなか知りうることもできないであろう。
その路地を奥まで行くと、通りに背を向けるようにして小さな稲荷社の祠がある。この祠に、かつて多くの遊女たちが願をかけに通ったことであろうか。
その脇には、喜遊が自らの首を切る前に書き記した辞世の句である
つゆをだに いとふ倭(やまと)の 女郎花(おみなえし)
ふるあめりかに 袖はぬらさじ
の看板が立てられ、一層の悲しさを誘っているのである。
実をいうと、この喜遊という遊女は実在したかどうかも定かではない。
本当にいたのか、単なる伝説なのか、それとも劇芝居の為の創作なのか。
今となっては知る由もないが、喜遊を描いた浮世絵はどれも明治初期のものであり、喜遊が生きていたとされる時代とそう離れてはいないという。
しかし、この悲しい伝説を残す喜遊はもとより、ここには外国人を相手とした一大遊郭が栄えていたことは歴史に明らかなる事実であり、その中では名もなき遊女たちの中に、喜遊のような悲しい物語が一つや二つあったとしても不思議ではないのではないか、と思うのである。
時代は明治、大正、昭和、平成、そして令和と移り変わり、かつて隆盛を誇った不夜城であった遊郭も無くなった。
その後、港はかつての象の鼻から本牧や大黒、磯子へと移り、貨物船の基地は豪奢なみなとみらいの街へと変貌した。
横浜駅は桜木町と名を変え、高架下のスプレーの絵も無くなり、黄金町の赤線も大岡川の廃船も無くなった。
かつての賑わいはすでに高島町にはなく、横浜と関内を結ぶバイパスとなり、静かな住宅地へと変わって久しい。
そのように時代は移り変わり、確実に遊郭の記憶は失われつつある中で、この岩亀横丁では現在でも岩亀稲荷が大切に守られ、その近くには横丁に名残を残すかのような屋号の店が今なお営業を続けているのである。
いま、誰からか教えてもらわねば決して気づかないような小さな祠には、今なお女性たちが日々お参りに訪れ、線香を手向けては手を合わせるる姿を見ることがあり、かつて文明開化と開国の波にもまれながら日本女性の矜持を決して失わなかった喜遊の伝説を今に伝えているのである。