みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

南方の島に殉職した受刑者たちの無念を語る慰霊碑の悲話(横浜市港南区)

地下鉄の港南中央駅を起点に地図を南側に見ると、港南区役所や消防署の建物があり、さらにその南には広大な横浜刑務所が広がっている。

この刑務所はもともと根岸にあった根岸監獄が関東大震災で倒壊したために、ここに移転してきたものである。

 

ふつうであれば刑務所が移転してくるなどというと反対運動でも起きそうなものであるが、人家もまばらな農村であったこの地域に数百人数千人の人が居住するという事で、肥料になる下肥が潤沢に得られるだろうという期待から大いに歓迎されたそうであるが、実際は水洗便所となったために地域の落胆は大きかったというのも面白い話である。

 

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港南ふれあい公園の前を通る道を南下していくと強固な鉄門が設けられて刑務所の敷地となるのであるが、日中は開放されており誰でも通行することが出来る。

 

しかし、刑務所特有といえる見上げるような高い塀の近辺は撮影禁止となっているほか、通行人は常時監視カメラで監視され、うっかりカメラでも出そうものならたちまち守衛さんに注意されてしまうので気をつけなくてはならない。

 

しかし、この道の一角には割れてしまった物を修復した記念碑が建てられており、この記念碑を撮ることは黙認されているのか、撮影するみうけんを守衛さんは見ていたが特にお咎めはなかった。

 

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この記念碑は、「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」という。

もう80年近くもなるであろう第二次世界大戦の直前、日本海軍は南方の北マリアナ諸島テニアン(横浜より2300kmあまり南側の太平洋の小島)基地に飛行場建設を計画した。

 

そこで網走や函館をはじめとする全国の刑務所から千人をこえる「囚人部隊」が組織され、「南方赤誠隊」として飛行場建設の任に当たったのである。

 

言葉も通じぬ南方での難工事ということで身体頑強な若者ばかりが選抜されたが、囚人としてよりも兵士として生き、工事完成後には恩赦での釈放も期待されたのか、その希望者は多かったという事である。

 

灼熱の太陽が照りつける悪天候の中で人力のみで密林を切り開き、山丘を切り開いては沼を埋めるという難工事に数々の殉職者を出しながら、ウオジェ島は昭和16年1月に28万人あまり、テニアン島は昭和16年10月に38万名あまりの人足を動員し、ようやく飛行場の落成にこぎつけたというから、この工事がいかに厳しいものであったかが想像できるだろう。

 

この時に犠牲となった刑務官を弔うために昭和17年建立されたのが、この赤誠隊ならびに図南報国隊の殉職者11名の合同慰霊碑なのである。

 

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その後、日本が劣勢になるや北マリアナ一帯は陥落、引き上げ船は米軍潜水艦により撃沈し、ことにトラック島への大空襲ではせっかく作った滑走路はことごとく破壊され占領されたばかりか、すぐに修復されると日本各地への空襲の拠点となってしまったのである。

 

第二次世界大戦ナチスドイツの降伏と、広島・長崎への原爆投下でその幕を閉じるのであるが、日本全国が相次ぐ空襲で焼け野原となっていく中、横浜は京都・広島・小倉に並んで原爆投下の候補地となっていたために昭和20年5月29日の横浜大空襲まで無傷であった。

 

日本各地への空襲に始まり、横浜には落とされなかったものの日本への原爆投下の惨劇に、自らが苦労して作り上げた飛行場が使われてしまうとは、受刑者たちの無念はいかばかりだったろう。

 

特筆するべきは、この横浜刑務所は当時としては近代的で水洗便所を備えていたために外国人も多く収容され、そのことを知っていた米軍は横浜刑務所とその周辺を空襲の対象地域から外したため、無傷であったという。

 

そして、この慰霊碑も無傷であったのだが敗戦後に「戦争協力の責任を問われる可能性のある文書、証拠の物品」のひとつとして連合軍の進駐を配慮し、無残にも砕かれて地中深く埋められてしまったのである。

  

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それから20年経過した昭和39年6月、石碑は再び掘り起こされて復元されて再度慰霊祭が執り行われたのであるが、今なお大きくかけ、白い漆喰で補修された姿を見るうち、艱難辛苦のすえに作り上げた飛行場を敵軍に使用されたこと、さらに自らの慰霊碑が敵軍への配慮から粉砕されて亡き者にされた受刑者たちの悲しみの断末魔が聞こえてくるようである。