みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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「東京湾要塞」のつめあと (三浦市・逗子市)


      
東京湾要塞とは・・・??

東京湾要塞(とうきょうわんようさい)という言葉を御存知だろうか。

明治時代から太平洋戦争の終わりまで、「帝都東京」を脅かす海からの攻撃に備えるため、1884年より建造開始された東京湾周辺の軍事施設の集合体である。
主な設備は、千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、三つの海堡(かいほう)からなる。

明治時代に始まり、太平洋戦争の終わりまで日本の首都・東京と、東京湾を死守すべく運用された巨大要塞である。

神奈川県の横須賀市上町には「東京湾要塞司令部」が置かれ、昭和の時代には、沿岸砲台には軍縮によって余剰となった艦砲が海軍から移管・設置され、東京湾の湾口部全体を射程に納めることとなった。これにより東京湾要塞は沿岸砲台の射線を第一線、海堡と横須賀近辺の射線を第二線とし、二段構えで湾内に侵攻する敵艦隊の撃破が可能となった。

時は経ち、現在の神奈川県の東南に位置する三浦半島は、首都圏からも近く海水浴場も多い風光明媚な景勝地とあって、週末ともなれば多くの観光客やレジャー客でにぎわう。

神奈川県の三浦半島には、よく見てみれば今なお数多くの東京湾要塞の痕跡が散見される。
それは明らかなる「戦争遺跡」であり、激動の時代を見てきた生き証人でもある。

首都圏における戦争遺跡は開発の波に飲まれ、その多くは消失してしまったのであるが、三浦半島には今なお数多くの「陣地」が残されている。

これらは、勝利を信じて戦ってきた若者たちの、まぎれも無き青春の痕跡なのである。

ここでは、その一部を紹介していく事とする。




              
三浦半島

三浦半島

神奈川県の東南に位置する小さな半島で、首都東京や横浜からも近く週末は多くの観光客でにぎわう、一大景勝地である。

三浦半島を縦貫する京浜急行の駅を降りれば、そこには観光客を待ち受ける横断幕がはためき、土産物屋が軒を連ねる。



その三浦半島の砂浜は、どこまでも広く、眼前にははるかなる房総半島が見て取れる。
  

名物の三浦大根は温暖な太陽の光をたっぷりと浴びて育ち、吹き付ける潮風にさらされ加工され食卓に上る。
 

街道をそれれば、一面に広がる畑の畝。
ここが首都に近い神奈川である事を忘れさせる情景である。



三浦半島の空は、どこまでも青くどこまでも広い。



              
日本陸軍 東京湾要塞 剣崎砲台
日本陸軍 東京湾要塞 剣崎砲台 大浦探照灯格納庫

まず、最初に紹介する戦争遺跡は「日本陸軍 東京湾要塞 剣崎砲台」である。
この砲台は、どこまでも続くキャベツ畑に突如現れる。



この砲台は東京湾に侵入してくる敵の艦隊を砲撃するために作られたもの。
延々と続く畑の中に円形の台座が比較的良好な形で残っている。
この砲台は、大正15年に落成、砲塔は第2海堡で使われていたものが流用されたという。→詳しいサイト




ここに据え付けられた大砲は日々東京湾をにらみ、行き来する船の動きに睨みをきかせていた。

しかし、大正15年といえばレーダーもミサイルもない時代。
砲撃は、砲撃手のカンと目視によるものだった。

しかし、いくら訓練を積んだ熟練の砲撃手といえど、夜間の襲来に対しては目視ができず、如何にも具合がわるい。
そこで、夜間の戦場においては探照灯(たんしょうとう)というサーチライトが使われたのだ。

この探照灯は、古くは野良犬が軍隊に入って出世する、という戦前のマンガ、のらくろでも登場し、宮崎駿のアニメ「天空の城ラピュタ」でも巨大な飛行船を照らすのに使われている。

  

実際の探照灯は、この写真のようなものであったらしい。(参考写真)



剣崎砲台から5分も歩けば、この探照灯を格納していた倉庫が現存する。
 

  

異常なまでの分厚さをもつコンクリートに開けられた口の中に、探照灯を格納していたらしいが、その広さは驚くほど狭い。
格納庫の入り口の上には電線かワイヤーの支柱が残り、右手の草に覆われた所には兵士の居住区の痕跡が残っている。

また、ここからはそう遠くないところに、より完全な形で残っている格納庫がある。
これは屋根にあたる部分に4本のアンテナが建てられているが、これは最近になって作られた気象観測用のものだそうだ。
  




             
横須賀海軍鎮守府 特攻戦隊 大浦震洋格納壕


「タッチャバ塚と錫杖観音の由来」で紹介した松輪からほど近い所に、大浦海岸という海水浴場がある。
夏場は海水浴客で大変にぎわう風光明媚な砂浜であるが、その両端は険しく切り立った浜磯となっており、荒波が岩礁を洗い、その上には数件の民宿が軒を連ねている。

  



  




その砂浜の背後に切り立つ崖には、いくつかの崩れかけた岩穴が穿たれており、中には明らかに人の手による堀跡が残されている。
これは、正式には横須賀海軍鎮守府 特攻戦隊 大浦震洋格納壕と呼ばれており、まさに若き青春を戦争に捧げた男たちの生きた痕跡なのである。


砂浜を前にした崖には大きく穴が穿たれて洞窟になっているが、その入り口は激しく崩落し、半分ほど埋まってしまっている。
その奥に、明らかに人の手によるものと思われる四角い横穴が続いている。

  




さらに奥に入ると、両脇には行く筋もの縦溝が掘られている。
本来、この上に天井があったのだろうが、今は落盤して大きな穴が開いている。

そのさらに奥には洞窟が続くが、すぐに行き止まりとなっている。

  




奥から入り口側を見れば、大浦海岸の入り江が一望できる。
この床には戦前・戦後の遺物と思われる様々な陶器や鉄製品(用途不明)などが多く打ち捨てられていた。

  




この穴は、人間特攻兵器として名高い「震洋」の格納庫であったとされる。
有事にはこのような小船艇に爆弾を搭載し、敵艦めがけて肉弾攻撃をするべくこの場所に配備されていたということである。

  




この近辺には明らかに人工のものと思われる溝がいくつもある。
地元の人に聞いてみたが、生きた魚を入れるイケスであるという説と、戦時中に身を隠して敵の上陸兵を狙い打つための塹壕である、という説に分かれていた。
真偽のほどは分からないが、どちらもうなずける。

  




この付近で、少し不思議な陶器の破片をいくつか拾った。
浜辺にはこのような陶器がいくつか打ち上げられていた。

  




これは、なんと手榴弾の破片である。
完全なものは、下の写真のような姿をしている。

これは鉄が不足した大東亜戦争中、鉄の変わりに陶器を使って作られた手榴弾である。
おもに、集団自決のために使われたらしい。

  




このような手榴弾が数多く生産され、この大浦にも常備されていたのだろう。
使われることがあったかどうかは分からないが、その破片が今なを、こうして海中を漂っているのである。

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◆横須賀海軍鎮守府 蛭田洞窟陣地


三浦半島南端、東側に海岸線に沿うように県道215号線が走っている。
三浦海岸の駅近くから県道215号線を南下すると、潮の香りと急峻な地形のぶつかる金田の地に差し掛かる。


この県道の急カーブ沿いには、よく見ると崖に穿たれた横穴が見て取れるのである。


  




これは、その正式名称を横須賀海軍鎮守府 蛭田洞窟陣地という。
これは、洞窟の中から住を狙い、海上より上陸してくる敵を待ち伏せするための通称洞窟陣地と呼ばれるもので、このような洞窟の遺構は三浦半島を中心に多く現存している。

この洞窟陣地は、中でも狙撃口が1つしか設けられていない至極小規模なものであるが、海岸を高くから見下ろす絶好の狙撃スポットに作られており、狙撃室も大型である。
おそらく、強力な大型機関銃や機関砲を設置しており、この一基だけでかなりの効果が期待されていたものと考えられる。


  

  




さっそく中へ入ってみる。

  



内部には2箇所の部屋が作られている。
出入り口のほかに、もう一つ抜け穴があり、その台形にきれいに彫られたトンネルは、ほかの陣地と比べればとても丁寧なつくりとなっている。


内部を詳細に調査していらっしゃる方もおり、その研究成果なども見ることができる。
   →http://teeart.blog107.fc2.com/blog-entry-91.html


この陣地は、入り口の脇に慰霊塔が設けられている。
由来がはっきりしないのでこの近辺で何らかの交通事故が発生したことにまつわる慰霊塔なのか、それともこの陣地に関わる慰霊塔なのかははっきりしない。
しかし、いつしか誰からも忘れ去られようとしている、戦前の若者たちの思い出の地に建つ古びた慰霊塔は、それだけで何か物悲しさを語りかけてくるのである。

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◆横須賀海軍鎮守府 大崎洞窟陣地


洞窟陣地といえば、大規模に掘られたものもある。
逗子駅から近いところにある、横須賀海軍鎮守府 大崎洞窟陣地がそれにあたる。


これは海岸線をにらむ崖に沿って、いくつもの横穴が穿たれている。
もしかしたら、この崖はここまで削られておらず、この横穴には銃眼が開き、上陸してくる敵を狙撃できるトーチカのような役割をしていたのだろうか。

それとも、規模からして物資を保管しておくための倉庫として活用されていたのだろうか。
想像は尽きない。

  




中に入ると、大きな部屋がいくつも連なっている。

  

  

  



この中に潜み、潜水艇に乗り込む生きては帰れない特攻作戦を前にし、または必ず勝つとの信念のもと本土決戦に向けて、体を鍛え銃を磨いた青少年たちがいた。
今となっては崩壊した洞窟になってしまったが、それは紛れもなく彼らの青春と人生の舞台であったのである。

ここで紹介した以外にも、三浦半島を中心として神奈川県には多くの戦争遺跡が現存する。
開発の波に飲まれていくこれらの遺跡も、紛れもない時代の生き証人なのである。

三浦半島から眺める夕焼け。
祖国に命を捧げた勇士達は、どのような想いでこの夕日を眺めたことだろうか。


  

(この記事はみうけんの旧サイトから転載したものです)

 

 

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