二宮町立二宮西中学校の近く、西光寺の南側の路地のところに、道路脇に湧水が溜まっている一角がある。これを、地元の人は単に湯場、正確には「川匂の湯場」と呼んでおり、一見してただの水たまりのようにも見えるがれっきとした文化遺産なのであるという。
この川匂の湯場には、二宮町教育委員会による立派な説明板が掲げられており、それによれば
ここは、古くから「川匂の湯」として広く知られ、神経痛や皮膚病に効能があるとして、湯治に訪れる人が多く、明治三十七・八年頃の最盛期には、東京・横浜方面からくる人で賑わったという。
当時は、三階建ての湯宿があり、ここから湧出した鉱泉を沸かして用いていた。
大正十二年の関東大震災で打撃を受け、建物は倒壊、地下水脈が変わってしまった。なお、僅かではあるが現在でも湧出している 平成四年九月
とある。
現在、この案内看板の足元には小さな池のみが残り、よどんだ水が僅かにたたえられているのみの小さなものであるが、これもかつては鉱泉としてあがめられ、この地の発展に大いに寄与したことであろうか。
この川匂の湯場の脇には畑があり、いくつかの作業小屋が立つスペースがある。
このあたりが、かつて三階建ての湯宿があったところで、多くの人で賑わったとされているのもここなのであろうが、最早その思い出を留めるものは何一つ残されておらず、ただ一羽の野鳥が小虫取りに勤しむのみである。
考えてみれば、明治から大正の頃というのは、やっと東海道線が開通した頃の話であり、まだまだ庶民にとって鉄道というのは気軽に乗れるものではなかったろう。
まだまだ交通の中心は歩きと馬であり、ようやく電車が開通して自動車によるタクシー輸送が軌道に乗った頃である。
それを押して東京や横浜から訪れた人たちというのは、どのような人たちであったろうか。
関東大震災によって水脈が大きく変わり、現在では鉱泉は湧いていても湯宿として経営させるだけの湯量もなく、ただ小さな池を満たすのみの存在である川匂の湯場となってしまったが、現在の神奈川県には箱根だけではなく幾つもの温泉があり、もし関東等大震災さえなければ、この湯宿も今も続いて、あるいはスーパー銭湯などに形を変えて、何らかの形で湯治の習慣は存続していたのかも知れない。
いま、この寂しい細道の端で夕陽に照らされる川匂の湯場を眺める時、かつてここで豪勢に客を迎えた湯宿で働く者たちの声が蘇り、たくさんの人たちが湯治に訪れたであろう昔の日々がにわかに思い出されて、ここにも時の流れの儚さをそくそくと思い起こすのである。