江戸時代から明治時代にかけての文明開化で、それまでの寒村から世界的な知名度を誇る港湾都市、貿易都市として発展した横浜。
日本で多く取り入れられたアイスクリーム、街灯、石鹸、スカーフ、牛鍋などの日本での始まりは横浜がほとんどであり、これといった歴史を持たない横浜市民は、その事を誇りとして街を発展させてきました。
しかし、そんな発展華々しい横浜市も、やがて戦争の渦に巻き込まれます。
横浜市は不思議と、それまで東京や名古屋が相次ぐ空襲で焼け野原となる中、無傷のままに残されてきました。
これは、横浜市が原子爆弾の投下候補地に設定されていた為で、原子爆弾の威力をはかるためにわざと空襲の候補地から外されていたのです。
そして、その下には多くの無辜の国民たちがいました。
このことからも、日本における原爆投下は戦争を終わらせるための手段ではなく、太平洋戦争後の使用を見据えた、日本の家屋や人間そのものに対する原爆実験だったことが伺えます。
しかし、昭和20年5月28日にアメリカで開かれた第3回原爆投下目標地選定委員会で横浜が候補地から外された事により、事態は一転して翌29日、500機を越すB29戦略爆撃機と、100機を越すP51戦闘機が横浜の空に覆いかぶさったのです。
当時、現在の黄金町駅の近くの高台に高射砲陣地がありました。
米軍はこの事を熟知しており、徹底的な爆撃が加えられたといいます。
逃げ惑う人たちは行き場を失って、京浜急行ガード下に折り重なるようにして焼かれていき、当時の黄金町駅は無残な焼死体であふれかえったという事です。
このとき、普門院にも助けを求めて多くの人が殺到しました。
しかし、その多くは力尽きて境内手前の階段にも死体が折り重なるようにして残されたという事です。
当時、この普門院の御住職も迫りくる炎の中で、念仏を唱えながら絶命されたといいますから、なんとも無慈悲な事です。
この空襲での犠牲者は多く、黄金町を含んだ横浜市南区(当時)だけでも死者1308人、行方不明7人、重軽傷者1987人、被災者6万9124人という甚大なものでした。
この事を追悼するべく建立されたのが、今回紹介する「黄金地蔵尊」です。
当初は黄金町駅の脇にあったそうですが、終戦から何十年とたち、空襲の記憶も薄れてきたころに駅前が再開発される事となり、現在の普門院の境内に移されたという事です。
現在でも毎年5月29日には法要が行われており、地蔵堂の脇にはそれにまつわる卒塔婆が並べられています。
また、境内の片隅には現在も砲弾を模した石や、兵隊さんたちの立派なお墓が多く残されています。
これらはこの普門院に限った話ではなく、どこのお寺にもあるようなものですが、山門脇の割れた墓石は空襲による熱風に炙られて粉々に砕けており、石をも砕く熱風の中で逃げ惑った人たちの恐怖やいかばかりであったろうか、と手を合わせずにはおれないものがあります。
また、黄金町の近くのコインパーキングにはかつて遺体を積み上げていたという事があったそうです。
今でも、何かしら建物を建てようとすると必ず良くない事が起きるというので片隅に地蔵尊が建てられて供養され、いつまでもコインパーキングのままである、というお話もあるようです。
いま、この静かな普門院の境内を歩き、山門から眺める黄金町の駅の方角をじっと眺めるとき、かつてこの空を覆い尽くした白銀の爆撃機の下で、火焔地獄の中で焼かれていく無辜の人々たちの断末魔の叫びが耳に聞こえてくるようで、現代まで続く平和に感謝しつつも、街に向かって手を合わせたのです。