JR戸塚駅から東海道線の線路沿いをずっと南下していく県道203号線を進むと、やがて戸塚駅の喧騒から離れた静かな住宅街である下倉田のあたりに出るが、下倉田交番の前の交差点を東側に折れていくとすぐに、老木に見上げるほどの巨大なわらじがかけられているのが目に入る。
この下倉田町にある大きなわらじは、通称「南谷戸(みなみやと)のおおわらじ」と呼ばれており、その起源は以外にも新しく大正の初めごろからのものであるとされる。
そのため、江戸時代に編纂された風土記稿にはこの大わらじのことは言及されていない。
昔から寺院の門前などには大きなわらじを奉納する習慣が一部でみられ、この近くでは鎌倉高徳寺の大仏などに類似のものがみられるものであるが、この下倉田のわらじはひときわ大きく、通る人の視線を集めているのである。
江戸、明治のころならいざしらず大正時代にもなればわらじを履くこともずっと減っていたはずであろうか。この大わらじの歴史もそれほど古くはなく、わきの小山に集められた神社の石碑は、中心の石碑が明治35年という比較的新しいものである。
この大わらじについて情報を集めていると、面白い記述があった。
平成23年9月号の「広報よこはま戸塚区版」によれば、南谷戸の大わらじは鎌倉時代に村の安泰と旅人の安全を願った旅人たちが、木に普通の大きさのわらじを吊るして飾っていやところ、旅の僧が古くなった自分のわらじと交換していったのだという。
村人たちは、「お坊さんに履いていただけるとは、なんとありがたい事か」と大いに喜んで、この地域でわらじを吊すことが流行したが、時代が明治から大正に移ったころ、鎌倉の大仏にある大わらじにを真似して大きなわらじをこさえて吊るしたのが南谷戸の大わらじの始まりだという。
その重量は両足で200キロを超え、時代が流れた今となっても、南谷戸の物言わぬ大わらじは村人たちの往来を見まもり続けていたのである。

いま、この道は旧道として通る人も少ない細い道であるが、かつてはここを多くの人々が行きかい、誰もがこのわらじを眺めては歩みを止めた事だろう。
今は交通手段は車や電車になり、街の様子も様変わりしたが、このワラジだけは何十年も変わらずこの地にあり続けては、道ゆく人々を見守り続けているのである。