相鉄線いずみ中央駅から少しばかり東南に進むと、住宅地の谷あいにぽっかりと浮かぶようにしてたたずむ泉中央公園があるが、ここは昼間ともなれば幼い子供たちを連れた若い母親が歓談している姿をみかける平和な公園である。
今となっては平和で静かな公園である公園も、中世には中和田城と呼ばれて、鎌倉幕府の御家人であった泉小次郎親衡の居館であった事を知る公園利用者はどれほどいるのであろうか。
泉小次郎親衡は建暦3年(1213年)に勃発した「泉親衡の変」の首謀者として知られている在地武士である。
鎌倉幕府を成立させた源頼朝の死後、執権の北条義時は源家の家督を継いだ頼家を暗殺し、権力を独占しようと陰謀をめぐらせていた。
そこで泉親衡は叛旗を翻して北条義時を打倒すべく立ち上がったのだが、陰謀が露見して未遂に終わり、追われる身となった泉親衡は信濃へ逃亡してしまったのである。
今、この公園の脇にはわずかな空堀が残り、この地が城であったことを今に伝えているかのようである。
また、この公園の周囲には泉親衡ゆかりの地と言い伝えられている数多くの史跡が残されており、馬洗いの池などはその代表的なものであろうか。
泉親衡がここに中和田城を築いた折、その鬼門よけとして勧進したとされる神明社。祭神は天照大神。
泉親衡が守り本尊として建立した滝前不動尊。
今は訪れる人も少なく、草に埋もれるようにしてひっそりとある。
かつて、不動尊の両側には男滝と女滝があり、それぞれ行者が滝にうたれて修行していたというが、今は崖にその痕跡をわずかにとどめているに過ぎない。
堂内では不動尊坐像が無言のままほこりをかぶって座っていた。今、主をなくしたこの不動尊は、ここでひとり何を思うのだろう。
これらは最近になってきれいに整備された公園と、その周囲にわずかに残される無名の神社や不動堂であるが、その一つ一つに確かな歴史と人々の思いがこめられて、鎌倉幕府を正しい道に導かんとした泉親衡の思いが今ここにも伝わっているようで、ここにも時の流れのはかなさをそくそくと感じるのである。