京浜急行三崎口駅から駅前の通りを南下していくと、今でも交差点名に名残を残す引橋というところに出る。
これは、かつてこの地を治めた三浦一族が三浦半島を要塞化していく途上で、谷間に橋をかけておき敵が来たら橋を挽いて渡れなくしてしまったので、今でも引橋という地名が残されているのは有名であるが、その引橋もその後の地震による地殻の隆起や開発による切り崩しなどにより、次第に面影を失いつつあるのである。
この引橋一帯には、前述の三浦一族の逸話の他に「送り狐」の伝説も残されている。
むかし、この辺り一帯は一面の雑木林で、ことに三崎と上宮田を抜ける道は昼なお暗く寂しいところであった。
そのころ、この辺りには一匹の狐が住んでおり、時おり上宮田村の漁師の家に来てはザルに入れていた魚を1匹だけ食べていく日々が続いていた。その狐は決して欲張ることもなく、まるで約束でもしたかのように決まって1匹だけを食べていったという。
しかし、ある時から、狐はその場で魚を食べずに持ち去るようになると、いままで1匹だった魚の数も2匹、3匹と多く持ち去るようになっていったのである。
ある日、狐はいつものようにやって来て、その日は五平という男の家へ入っていった。
この家には決まって脂の乗った大きな魚がある。この魚を土産にと狐がザルに首を突っ込んだとき、五平の家から男たちがひそひそと話す声が聞こえたのである。
どうも、男たちは「こう毎晩魚を持っていかれてはたまらない。いっそ狐を捕らえて毛皮にして売ってしまおう」という相談で、さすがの狐にもこれには冷や汗をかいたのは言うまでもない。
しかし、そこに五平の声が聞こえた。
「いやしかし、こないだあの狐が子狐を3、4匹連れているのを見たぞ。それがまた、可愛い子狐でなぁ。」
その声を聞き終わるが早いか、狐はザルの中の魚を1匹だけ盗んで、慌てて逃げ帰ったのである。
その後、狐は魚を盗みに村人の家に行くことはなくなった。
毎晩のように餌を探して歩き回り、砂浜を、野山を駆け巡ってみるがめぼしいものは何一つない。
かといって腹を空かせた子狐を放っておくわけにもいかず4、5日して再び五平の家にやってきたのである。
狐はさっそくザルに顔を突っ込み魚をくわえると、足を踏み外して足元に積まれていた桶を倒してしまった。夜の村には、ガランガランと桶の転がる音がけたたましく響き、身の危険を感じた狐は慌てて魚を加えると、一目散に逃げて行った。
そうして月日は流れて子狐も立派に成長すると、狐は村に魚を取りに行く事もなくなっていったのである。
その年、秋も深まったころに狐が雑木林の中にいると、なつかしい五平が歩いてくるではないか。五平は狐に気付くこともなく、何か急いでいるかのように足早に通り過ぎようとしていったが、突如飛び上がっては大きな悲鳴を上げて逃げ帰ってしまったのである。
最初はなぜ五平が驚いたのか分からない狐であったが、どうも気になって五平の家に行き家人の話に聞き耳を立ててみると、抱えるような大蛇が五平の方を見ていたという事であり、村人はみな五平の話に恐れおののいていた。
狐はしばらく考えこむと、山道を戻って元の雑木林へ帰って行ったが、それからは夜の山道を村人が通る時、いつまでもこの狐が見守るようになったのだという。
最初は、この狐は何をしているのかと不審に思った村人たちも次第に狐に親しみを覚えるようになり、狐も村人たちが見えなくなるまで、まるで村人たちの行く姿を見守るかのように凛と座って見つめつづけていたという。
この狐が村人を見守るようになってからは、五平が見たという大蛇も姿を現さなくなり、この話が広まると上宮田の村人たちはこの狐を「引橋の送り狐」と呼んで、とても大切にしたのだという。
いま、引橋のあたりには幹線道路が走り、雑木林はすっかり切り開かれて夜になれば煌々とした街灯が光を連ねる引橋であるが、このようなどこにでもありそうな幹線道路とその周辺にさえ、このような逸話が残されていることに、民話というものの奥深さと楽しさをしみじみと感じるのである。