JR辻堂駅を起点に北上していくと、交通量甚だしい国道1号線が東西に走り、さらに北上していくと周囲の住宅地を見下ろすような大庭城址公園が広がるが、その脇にあるのが舟地蔵と呼ばれる地域であり、その名は公園の名にもなっている。
この公園は駐車場が無いので近隣の住民だけが使うような公園であるが、園内は広々として遊具も充実しており、四季折々の花が咲いて実に美しく、誰からも人気のある公園である。
その公園の前にある交差点にも、舟地蔵という名前が付けられている。
この交差点は大きなT字路であるが、藤沢市を南北に縦断する藤沢厚木線の途上にあり、その交通量は多くしばしば渋滞が発生するほどである。
この舟地蔵公園、舟地蔵交差点の名前の由来となった舟地蔵はこの交差点の脇に鎮座しており、きちんとした屋根が付けられるばかりか植栽はきれいに手入れされて、その御前には真新しい花がうやうやしく供えられ、地域の人々から深く愛され大切にされていることがうかがえるのである。
近づいてお顔を拝すると、その像容はふっくらとして表情は穏やか、石で造られた舟の上にちんまりと座っており、その右手には優しく数珠が握られており、その頭上にはなぜかたくさんの千生りびょうたんが飾られているのが見てとれる。
この地蔵尊は、その名の通り地蔵が舟型の台座に乗っているところから舟地蔵という名前が付けられた。
このように舟の上に乗った地蔵尊というのは、その由来は様々だが全国に数多く見ることが出来る。
時は戦国時代初期の、永正9年(1512年)。この脇の大庭城は鎌倉の扇谷上杉氏が治める城であったが、北条早雲の攻める所となりここに戦端が開かれた。
しかし、この地域には引地川と、引地川の水が作る大きな沼がいくつもあって堀の役割を果たし、馬や足軽で攻め入るのはなかなか容易なことではなかった。
その時、北条早雲は近くに住んでいたボタ餅売りの老婆にそれとなく世間話を装って話しかけ、ついに沼に水を引き入れる引地川の取水堰の場所を聞き出したのである。
この取水堰を閉じてしまえば沼に水は入ってこなくなり、沼は干上がってしまうであろう。そう考えた北条早雲の予想は見事に的中し、大庭城は堀を埋められたようになってしまいたちまちのうちに落城してしまった。
また、この老婆も口封じとして北条方の軍勢に無残にも殺されてしまったのである。
この土地には、しばらく大庭城の城攻めと哀れな老婆の話が口伝で言い伝えられてきたが、時は流れて太平の江戸時代となり、地域の領民たちによって供養のためにこの舟地蔵が作られたのである。
その後、開発に次ぐ開発で何度か移転させられたものの、この地は北条方と上杉方の激戦地であったと伝えられており、今となってはすっかり風景も変わり、道の片隅にたたずむ舟地蔵は、戦乱のことなどすっかり記憶の彼方に忘れてしまった現代人が自動車で駆け抜けていくのをじっと見つめているかのようである。
時は500年流れた現代の藤沢。
引地川には穏やかな流れが流れて、両脇には新緑が青々と茂り、どこかしらかウグイスの美しい声がこだましているが、この光景は昔も今も変わらずここにあり続けたのであろうか。
いま、この引地川の土手の上に立ち、川向うの城跡を眺めてもすでに武者たちの掲げる旗印も馬のいななきもなく、変わることなく流れ続ける川の流れの傍らに、ただ静かにざわめく夏木立と、交差点の片隅にひっそりとたたずむ舟地蔵がわずかに往時を伝えているのである。