横浜市営地下鉄の上大岡駅前の鎌倉街道を南下し、ほどなくして笹下釜利谷道路に入る。
地元ではウッコシと呼ばれる打越の交差点から洋光台方面に向かうと、左手には比較的最近に整備された新興住宅地が広がるが、その中に潜むようにして佇むのが浄土真宗高田派の梅花山成就院である。
歴史は古く、建保2年(1214年)、時は鎌倉時代に法相宗から浄土真宗に改宗したという古刹である。本堂が平成26年間(2014年)に再建されたので新しい見た目であるが、その歴史は実に深い。
この成就院は、もともとは戦国時代には北条家の有力な家臣であった間宮氏と深い関係を持ち、北条家が整備推奨した梅林の美しさから梅花山とも号されているが、時代は流れて宅地開発の波に晒されて、今となってはその名残はない。
今回注目したのは境内の片隅に残された一体の不動明王坐像である。
どのような経緯によるものか、この不動明王像はその胴体を横一文字に切り裂かれているが、その背後に燃え盛る火焔の躍動感、道を外れた民衆がいれば、その厳しさをもって正しき仏道へと無理やりにでも引き戻す忿怒の表情が実に見事に彫り込まれているのである。
その台座には、不動明王の脇侍である矜羯羅(こんがら)童子と制咜迦(せいたか)童子が彫り込まれ、その中央には成田山の扁額を掲げられた滝が描かれているのである。
これはおそらく、江戸期に流行った関東の三大不動尊、すなわち千葉県の「成田山 新勝寺」、東京都の「高幡不動尊 金剛寺」、神奈川県伊勢原市の「大山寺」のうち、もっとも著名な成田山の不動明王を模したものなのであろう。
江戸時代、このような不動明王のほかにも富士山信仰、薬師霊場、観音霊場などが流行したが巡礼というのは誰にでもできる事ではなく、潤沢な路銀と健脚が必要であった。
金や脚力のないものは当然ながら巡礼などはできず、このような石仏を身近に作っては霊場参拝の代わりとしたのであろう。
慈悲深く霊験あらたかなる成田山のお不動様に、一眼でもお会いしたい。しかし、歳を重ねて長く歩く事などとうていできぬ。
ならば、せめて地元にお不動様を──。
このような信心が、この地にも息づいていたのだろう。
ここにも、いにしへに生きた人たちの信仰心の深さが感じられるようである。