相鉄線のいずみ中央駅の前を流れる和泉川に沿って南側へ下ると、ほどなくして静かなお寺が見えてくるが、これは近くに館を構えていた泉親衡(いずみ ちかひら、治承2年(1178年)~文永2年(1265年)が菩提寺として建立した泉龍寺という寺が元である。
泉親衡が鎌倉幕府打倒の計画を立てたことが露見して逆に追われの身となるや、子孫が絶えて荒廃していたのを、慶安4年(1651)に領主の松平勝左衛門昌吉が浄土宗の寺として再興し、名を改めて宝心寺としたのであるから、その起源は深い。
この寺は伝統的な建築様式でありながら、どこか近代的な香りを漂わせる本堂と、綺麗に掃除された境内があり、平日ということもあり訪れる人はまばらながら雰囲気ははなはだよく、この地にいるだけで心が洗われるかのようである。
この境内の隅には小さな地蔵堂があるが、これこそは地域の信仰を集め大いに隆盛した子授け、子育て、安産の霊験あらたかな岩舟地蔵堂であり、その中には岩で出来た小舟の上にしっかと立つ地蔵菩薩の立像が据えられているのである。
この岩舟地蔵は、横浜市の指定有形文化財にも指定されており、江戸時代中期の享保4年(1719年)の刻銘が残されているたいへん古いものである。
このころ、現在の栃木県下都賀郡岩舟町にある岩船山高勝寺の地蔵信仰が大流行し、この霊験あらたかなる地蔵尊にあやかろうと関東一円で岩舟地蔵が建立された中で、この宝心寺の岩舟地蔵はとりわけ早い時期に造像された貴重なものである。
岩船山高勝寺は宝亀2年(771年)に開山された古刹で、山全体が船の形をしているところより「岩船山」と呼ばれた。
本尊の地蔵尊は「生身の地蔵」と呼ばれて死者を暖かく懐に抱いてくれると同時に、子授け、子育て、安産の地蔵尊として、「日本三大子授け・子育て地蔵尊」として今に至ってもなお篤い信仰を集めている。
この宝心寺の岩舟地蔵も安産を願う親、孫の健やかな成長を願う老人らからの信仰をよく集め、相模国じゅうから参詣に訪れる人が絶えず、また周囲の風光明媚さと東海道や大山みちの近さも手伝って、たいへん賑わったという事である。
いま、時代は変わり訪れる人もめっきり減った岩舟地蔵堂であるが、いまなお小さな千羽鶴が供えられ、綺麗に保たれた地蔵堂と境内のなかに、令和となった現在でもなお、確かに残る信仰のともしびを感じさせてくれるのである。