みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

信心の積み上げが山となった 塩嘗地蔵堂(横浜市神奈川区)

地下鉄片倉町駅を降りて神大寺(かんだいじ)の方面に向かうと、あたりは横浜市の中心部に近いながらも田畑が残り、つかの間の農村風景を楽しむことが出来る。


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その中の、いかにも細い1本の道を入っていくと、そこはすでに大都会横浜の喧騒から離れ、通る人もなくうっそうとした木々が道に覆いかぶさるようで、まるで山道を歩いているかのような錯覚すら感じさせられるのである。


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その、神大寺の田畑を抜けて住宅街が広がる一角に入ると、道の片隅にひっそりと地蔵堂が建立されて道行く人を静かに見守っているのであるが、朱色の「塩嘗(しおなめ)地蔵尊」の暖簾がなければ、うっかり見落としてしまいそうな小さなお堂である。


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近づいてみれば雪のように積みあがった塩が地蔵尊の前に積まれているが、その見た目はいかにも「山のように」といった表現が当てはまり、その脇にも開封されていない塩がたくさん積み上げられ、地域の人々から今なお篤い信仰を受けていることが容易に想像できるのである。

 

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塩嘗め地蔵というのは、古来より街道沿い、とりわけ峠越えの出入り口に多く作られてきた。いくら塩を供えても地蔵がなめて、塩が無くなってしまうという不思議な由来話が添えられている場合が多く、実際には旅の安全を祈願して塩を供えられた場合が多いとされている。

 

それにしても、みうけんも数多くの塩嘗め地蔵を拝んではきたが、ここまで嘗めきれないほどの塩が供えられた塩嘗め地蔵を見るのは初めてであり、正直驚きを隠せない。


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この辺りはもともと、六角橋から小机に抜ける八王子街道の脇道として旅人の往来は多く、とりわけこのあたりの地名の由来となった神大寺が建立されていたとされ、大変賑わっていたそうである。

 

この塩嘗地蔵尊はいつ建立されたか、まったくの不明であるが古くからここに佇んでは旅人の行く先々を見守っていたのであろうか。

 


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この神大寺の地名は戦国時代にまでさかのぼる事が出来る。

この近辺はかつてうっそうとした木々が生い茂る寂しい場所であり、龍が潜むと恐れられていた「龍池」があったという。

 

時の小机城主、笠原信為(かさはらのぶため)が亡父である笠原信隆(かさはらのぶたか)の菩提を弔うべく、また龍を鎮めて領民を安堵させるべく、龍池があったところに寺院を建立し、神大寺と号したのが初めであるとされる。

 

しかし、神大寺は二代目の住職である天叟順孝(てんそうじゅんこう)のころ大火により失われて小机に移り、これがのちの「雲松院」となったとされている。

 

その後神大寺は寺としては無くなってしまったがその地名だけは残されて神大寺という町名に引き継がれているのである。

 

その神大寺がどこにあったのかは資料がなく定かではないのであるが、この塩嘗地蔵のある辺りからはしばしば骨壷や六文銭が出土し、また塩嘗地蔵はもともと神大寺の門前にあったと言い伝えられていることから、この辺りが神大寺の寺領であったと想像しても良いのではないだろうか。


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夕日が傾き西日に照らされて塩嘗地蔵堂の塩が石英のように輝くとき、かつてここを往来した多くの旅人と、今なおこのすり減った地蔵尊を信仰し一途に塩を供える里人の姿が重なるようで、数百年の時の流れを一瞬に縮めてしまわれたかのような不思議な感覚に襲われ、ここに衰える事なき地元の方々の地蔵尊への崇敬を熱く感じ、厳粛な気持ちで手を合わせるのである。