観光客で賑わうする箱根登山鉄道・風祭駅の近く、小田原厚木道路と国道1号線が交差するところに、あまり目立たない踏切があるが、その脇には崖に面した細い獣道があり、入口の脇にはいかにも古びた案内看板がひっそりと建てられているのが見てとれる。
その入口には、今にも草に埋もれてしまいそうな「南無妙法蓮華経」の御首題を陰刻した石塔がひっそりと建ち、ここが日蓮宗に由来する霊跡である事を確かに今に伝えているかのようである。
その奥には苔むした冠木門が建ち、その冠木門には日蓮聖人の家紋であった「井桁に橘」の紋が掲げられているのが見てとれるが、その先は訪れる人も少ないであろう獣道が線路に沿ってどこまでも続いているのである。
その先は木々が鬱蒼と茂って草は伸び、いまや日蓮宗の信徒はもとより地元の人からも忘れ去られようとしているのか、蜘蛛の巣が数え切れぬほど張られており、適当な木の枝を拾って蜘蛛の巣を払いながら進んでいくと、これまた埋もれかかって足場も悪い階段にたどり着くのである。
その途中には倒れ掛かった石にも「南無妙法蓮華経」の陰刻がなされては、手を合わせられることすら忘れてしまったかのような寂れぶりで、傾く夕日に照らされては一抹の哀れさを醸し出している。
その階段を上り切ったところにある小さなお堂は、お堂というよりはまるで畑の片隅にでもありそうな倉庫のようなたたずまいであるが、これこそが日蓮聖人の霊跡である「象の鼻」を今に伝えるところなのである。
このお堂の中には三体の石仏が並び、時おり線香や花が手向けられては供養されているようであるが、中に掲げられた墨書の木板はすでに色あせて判読も難しく、このお堂の中も蜘蛛の巣がかかってホコリがたまってはいるものの、この石仏こそが日蓮聖人が遠き異国に残した父母を想い、また衆生を病苦から救うべく施されたとされる石仏であり、このお堂の本尊とされているのである。
合掌礼拝し、備え付けられていた線香を手向けてしばし向き合うと、その首は落とされたものが補修された痕跡が見られて、ことに中央のご本尊様にあっては頭部まで無残に割られた跡があり、いかに補修されようとも、ここにも明治の廃仏毀釈の猛威が振りかかったのであろうかと実に悲しい気持ちにさせられる。
このあたり一帯には、かつて象の鼻と呼ばれた奇石があった。
文永6年(1269年)、日蓮聖人47歳のときに富士山に埋経して経塚を築くと、日蓮聖人は箱根路を経て帰倉するおり、ここに象の鼻に似た巨石を認めてその上にお立ちになり、遠く相模灘のほうを眺められた。
相模灘のむこう、現在の千葉県に当る安房の国には亡きご両親が永遠の眠りについており、その菩提を弔われるとこの地に石の宝塔をお建てになったと伝えられている。
その50年あまり後、日朗聖人の9人の弟子(九老僧)のひとりである朗慶上人がその地に庵を結んで象鼻山妙福寺と号したが大正の初めに浄水山蓮生寺と合寺し、象鼻山御塔生福寺と名を変えて現在に至るのである。
いま、ここにはうっそうと茂った木々が視界を遮り、相模灘を望むのは容易な事ではないのだが、ここ象ケ鼻の地で衆生を苦しめる病を消滅させんと一心に祈願し、石仏を納められた日蓮聖人の優しさが思い起こされるようで、かつて確かにあったであろう日蓮宗門徒が列をなして合掌礼拝する姿が目に浮かぶようである。