JR・地下鉄の桜木町駅を降りると、そこは平日でもにぎやかなみなとみらいの観光地が広がり、数多くの商業施設のはざまに日本丸やランドマークタワー、コスモクロックといった名所が集まる観光の目玉地域である。
その中に、ビルに挟まれた静かな一角があり、ここまで来ると人通りは観光客から通勤客に変わってくるのであるが、このあたりはかつては海であったことを知る人はどれほどいるだろうか。
横浜市歌に「むかし思へば苫屋の烟 ちらりほらりと立てりし處」と歌われるように、100戸に満たない寒村であった横浜地域も、文明開化の波により急速に発展すると海は埋め立てられてゆき、このあたりは横浜船渠会社の造船工場が広がった。
そのすぐわきには貨物船の高島操車場が広がり、海にはダルマ船と呼ばれ動力すら持たない、もっぱら曳航されて運用される小さな貨物船が海面を埋めて係留されるといった、今には見ることができないミナト横浜の原風景が広がっていたのである。
この造船所は横浜船渠株式会社から三菱重工株式会社横浜造船所へと変わり、軍用船を数多く造ることとなる。
そのうちの一隻に、輸送船団を護衛する空母とタンカーを兼ねた「山汐丸」があり、日本陸軍の指揮下で運用される予定であった。
「山汐丸」は昭和19年(1944年)に起工され、翌昭和20年の1月に竣工した。
航空機の搭載機数は6機と多くはないものの、対潜水艦戦闘を重視した武装を誇っていた。
しかし、時すでに日本の制海権も制空権も無きにひとしき状況であり、従来の任務とされていた南方方面での操業は不可能と言った状態で、本来のタンカーとしては使用の見込みが立たなかった為に石炭焚きの貨物船へと改造をしているさなかの昭和20年2月、米軍機の空襲で破壊されて着底してしまったのである。
そのまま放棄された山汐丸は解体も難しく、船首だけが折れて沈没した状態でそのまま横浜船渠の北部に配置され、土砂を詰めて岸壁として使われ、「山汐岸壁」という愛称で親しまれたが昭和31年(1956年)に造船所拡張の妨げになるとして撤去されたのである。
それから時がたち、永らく忘れ去られていた山汐丸であったが、平成20年(2008年)、みなとみらい地区の開発工事のさなかに山汐丸の錨が発見され、同ビルの脇の広場に展示されたのである。
現在、足早に通り過ぎるサラリーマンたちは、この錆び付いた錨にいっときも足を止めることもなく、港町ならばよくあるだろうといった日常の風景の一部と化してしまっている。
この脇には説明看板が設けられ、この錨が歩んできた悲しい歴史と戦争の悲惨さを今に伝えているのである。
いま、横浜の街はすっかり平和になり、綺麗に近代的に整備されたみなとみらいの町並みからは、かつての悲惨な戦争の記憶などすっかり取り払われてしまったかのようである。
だが、この街の片隅に残された片方の錨こそが、いまの横浜を発展に導いた近代造船史の1ページを示すものであり、決して忘れてはならない先の大戦の痕跡を残す戦争遺跡なのである。