みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

経塚山から掘り出された聖徳太子像の伝説(横浜市港南区)

地下鉄の港南中央駅を降り、横浜刑務所を越えて坂を上り、環状2号線を渡るとひときわ小高い丘の上に笹下中央公園という公園がある。

 

 

この公園の近辺は以前にも紹介した雑色杉本遺跡が近くにあり、またこの台地上は笹下城を築いた北条家家臣団間宮家の家臣である北見掃部の館跡があったところでもあり、その歴史はじつに古く、また眼下に見渡す町並みと遠くから聞こえてくる貨物船の汽笛が、日常の忙しさを忘れさせてくれるのである。

 

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笹下中央公園は2段構えの構造である。

上段には草が茂る原っぱのような広場が広がり、下段にはブランコや公衆トイレ、遊具などが並ぶ児童公園となっているが、下段の砂場の脇にある東側の出入り口から公園を出ると、左手にこんもりとした小山があるのが見て取れる。

何も知らなければ通り過ぎてしまいそうな、この小さな小山こそが古くは経塚と呼ばれ、不思議な伝説を今に伝える太子堂が建てられていた由緒ある小山なのである。

 

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この小さな小山の上には、明治の初めまでは杉山神社があり、盛大な祭りも執り行われていたというが、明治時代になると神社合祀という愚かな国策で松本の天照大神宮に合祀されてしまい、いまは地元の名家の墓地となっているのみである。

 

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また、この近くには浄土真宗本願寺派東福寺という寺があり、山号を杉本山(すぎもとさん)、院号を三月院(さんげついん)と号する。

 

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この東福寺はもともと、天禄3年(972年)に天台宗の僧であった護妙法印が、比叡山より行基作「薬師像」を背負って小さな草庵を結んだことが起源とされている古刹である。

天禄3年(972年)といえば、平安時代の最盛期を迎えるころで、京の都では絢爛豪華な公家文化が花開いていたころであろう。

 

しかし、永歴元年(1160年)の真夏の日に落雷により堂宇は火災となり灰燼となると、しばらく荒れ果てて村人により小さな薬師堂が建てられる程度であった。

 

時は下って文治5年(1189年)に密厳という僧があまりの衰退ぶりに嘆き一念発起、草庵を結んで中興させると、密厳の弟子であった密弁が親鸞の法弟となって海弁という名に改めると同時に浄土真宗に改宗して現在に至った。

 

杉本山という山号は中興の祖である、北条家家臣の笹下上城主間宮氏の配下である北見掃部がこの近くの杉本と呼ばれるところに住んでいたから、さらに親鸞上人が東国布教の長旅の折にこの寺に3ヶ月にわたり逗留したため三月院という院号を与えられている実に由緒深い古刹なのである。

 

この時、親鸞上人の夢枕に聖徳太子が現われると、近くにある経塚という山には聖徳太子みずからが彫った太子像が埋もれている、ぜひとも掘り出してほしいとのお告げがあった。

 

親鸞上人はさっそく山に行き、夢でお告げを受けた場所を掘りおこしてみるや夢の中に現われたお姿そのままの太子像が土の中からあらわれたので、親鸞上人は大変よろこんで、その太子像を寺にお祀りしたのであるという。

 

その後、この太子像は、ふたたび経塚山にお堂が建てられて村人たちの手により太子堂に納められたのであるというが、いつしか倒壊してしまい、また太子像は元の通り東福寺の寺宝として大切にされているのだという。


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現在、東福寺はお寺の鐘さえ定刻になると自動的にロボットがついているようなお寺となってはいるが、この太子堂があったという経塚山には昼なおうっそうとした木々が生い茂り、鳥のさえずりと遠く公園で子供らが遊ぶ声だけが聞こえ、移り変わる時の中にひっそりと親鸞聖人の夢枕に現れた聖徳太子の伝説を伝えている。