京浜急行三浦海岸駅から海に向けて歩く突き当たりに三浦海岸交差点があり、そこを右折して海沿いの道を南下して行くと南下浦の中学校があり、そのさらに南下した道路脇の崖に穴を開けているのが通称「蛭田の鼻の狙撃用洞窟陣地」である。
この周囲はもともと切り立った崖で、わずかな細い道が海沿いをかろうじてつなぐ程度であったが、明治の近代化をへるにつれ帝都東京に繋がる東京湾の防備が必要とされ、数多くの砲台、高射砲陣地、特攻隊基地、洞窟陣地などが作られ、その総称を東京湾要塞といった。
ここ蛭田の鼻狙撃用洞窟陣地もその1つで、石仏が並ぶ入り口があり、その右手には銃眼が開いている。
銃眼は本当はワクが綺麗な段々構造になっているが、草木に覆われてしまい写真ではよく分からない。
そのすぐ左手には開口部があるが、こんな銃眼のすぐ脇に出入り口を作るものだろうか?
出入り口や銃眼の周囲には石仏が並べられているが、これらは江戸期のものである。
他の方のブログを拝見すると「この道は交通事故が多いから」と書かれたものもあるが、こちらの石仏に関しては時代的に交通事故とは関係がないのではと思うが、それはともかく開口部へと近づいてみる。
ひょいっと中へ。ここから先は懐中電灯必須です。
かつて、たくさんの兵隊さんが慌ただしく行き来した地下の暗いみち。
横穴はずいぶん奥深くまで続き、幾筋にも枝分かれしている。
ちょっと奥まで入れば、携帯の電波も外界の音も、もちろん一筋の光もささない暗黒の世界。
大長編ドラえもんで洞窟に入りこんだスネ夫が、「あまりの静けさに耳がキーンとする」と言っていたが、その気持ちが何だかわかるような気がする。
巡り巡って、こちらが銃眼の内側。ここまで来て光が見えてホッとする。
かつて、ここには機関砲だかカノン砲だかの武器が据え付けられていた。
奥の四角い小部屋は弾薬を置くところらしい。
銃眼から外界を眺めるが、木々が邪魔してぜんぜんわからない。
かつてはここから機関銃やカノン砲などが海岸をにらんでいたと同時に、暗黒の洞窟と明るい外界とをつなげる数少ない接点でもあった。
横穴をもどり、階段を下ってさらに深くに入っていく。
いまここで大地震でもあって閉じ込められたら一巻の終わりだなとすら思う。というのも、ここではIphoneの懐中電灯を使っているが、それを消すと上も下も右も左も分からないほどの暗闇になる。
懐中電灯の光が当たるたびに、ビックリして逃げる巨大ゲジゲジ。
脅かしてごめんよ。でも、こちらも驚くよ。いちいち寿命がちぢむ!!
このあたりで、大量の瓶が投棄されているのが目につく。
「藤沢市 株式会社 弁天商会」の「サロン」。今はこの会社はもうないらしい。
このほかにも、大量にあった。サロンとはどんな飲み物だったのだろう。
この会社は藤沢市片瀬でジュースの製造販売をしていたが、ずいぶん前になくなってしまったのかネット上には何の情報もない。
まだまだ奥深くへと続いているが、このあたりで探索はやめにしておこう。
そろそろ精神的に辛くなってきたなぁ。中は割とほこりっぽいので、咳喘息を患っている身としても長居はできない。
再び階段を上がって、元来た道を戻る。
思えば、この階段の奥に本来の入り口があって、先程入った道路沿いの開口部は入り口ではなく、別の銃眼があったのではなかろうか。
道路拡張時に削られて、入り口のようになってしまったのかもしれない。
外に出たらホッとする。
明るい外界には、どこまでも清々しく爽やかな晴天が広がっていた。
今までさんざん青空の下を原付で走ってきたのに、この穴にしばらくいてからの青空はまた格別で、思わず胸いっぱいに空気を吸ってしまった。
太平洋戦争末期、この海岸に上陸してくるかも知れない敵兵を待ちかまえて、この片田舎の暗い洞窟も戦場となった。
実際に戦闘にはなっていなくても、兵士達にとっては紛れもない戦場だったのである。
こういった洞窟陣地は、主に少年兵が防衛の任にあたっていたというが、現代であれば部活に勉学に恋愛に遊びにと忙しい青春の年頃の少年たちが、この洞窟から眺めていた三浦の海。
彼らの眼には、いったいどのように映ったのだろう。
その後戦争は終わり、日本国民は敗戦国の国民として貧困と飢えの極地と、塗炭の苦しみを味わう事となるが、こうした数多くの犠牲の上に今の繁栄した日本があることを忘れてはならないだろう。