これは前記事「 刑場の露と消えた若き六代御前の哀話(逗子市)」のつづきである。
悲哀あふれる六代御前の墓に詣でた後は、ふたたび田越川を上り10分くらい歩いた所に、京急逗子線の終点である新逗子駅が見えてくる。
駅の脇の清水橋のたもとでは、今でこそオシャレな洋食屋さんが灯りを燈し、あまたの自動車や歩行者が川の流れなど気にせずに行き来しているが、この地とこの河原こそがかつては数人の幼子を血に染めた悲劇の場所であったなどとは、今となっては知る人は少ないのである。
新逗子駅の前を流れる田越川は、古くは手越、多古江ともいい、御最後川とも呼ばれており、今でこそ静かで流れもゆるい小川だが、鎌倉時代の昔は水深身の丈もあり船の往来激しく、また鎌倉の南方の処刑場としても機能し幾人もの生首を流した川でもあるというのが御最後川の由緒であり、その慰霊をつかさどったのが逗子の延命寺ともいわれるのは前回の記事でも述べたとおりであるし、前回の記事でとりあげた六代御前などはまさにその好例であるといえよう。
しかし、今では近代的な駅とオシャレなお店が軒を連ね、道ゆく人と車でにぎわうこの場所もまた田越川を血に染めた悲劇の場所なのである。
現在は駐車場があり、その一角には誰からも忘れ去られたようにひっそりとたたずむ石碑がある。
この石碑じたいは大正12年に建立されたもので、「忠臣 三浦胤義遺孤碑」とある。
三浦胤義(みうらたねよし・生誕不詳-1221)は、鎌倉時代前期を生きた三浦一族の武将で、三浦半島を中心として勢力を築いた三浦大介義明(みうらだいすけよしあき・1092-1180)の孫にあたり、また鎌倉幕府の御家人となった三浦義澄(みうらよしずみ・1127-1200)の九男にあたる。
元久二年(1205)の畠山重忠の乱、建暦三年(1213)の和田合戦で功を立てるが、六代御前が処刑されて22年たった承久三年(1221)、京都にいる時に後鳥羽上皇の近臣による説得で執権北条義時打倒計画に参加する。
この計画に際して、出世を見返りとするなら兄の三浦義村は必ずや味方となってくれると確信したものの、その目算は外れてしまい、鎌倉の三浦義村に送った密書は三浦義村本人により北条方に届けられてしまい、計画がすべて筒抜けとなってしまった。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」をひもとけば、源頼朝の妻である北条政子が鎌倉の在郷武士を説得する演説をした際、三浦胤義の名を北条と幕府に対する逆臣として挙げている。
こうして三浦胤義ならびに後鳥羽上皇軍は大敗を喫し、三浦胤義は自刃して果ててしまったのである。
この乱の後、後鳥羽上皇は島流しとなり、上皇に加担したものは容赦なく処刑された。
三浦胤義は11才を筆頭として5人の子がいたが、三浦胤義が留守にしている間は三浦義村の母の所に預けられていた。
北条義時がこの5人を見逃すはずはなく処刑の命令を出したが、三浦義村の母とて可愛い孫を見殺しにはできぬ、せめて上の子だけは見逃してほしいと嘆願した結果ようやく許され、一番上の子を除く9歳、7歳、5歳、3歳の子供たちはこの田越川に連れ出され、その首をはねられたのである。
首をはねる時、相手はあまりにも幼く、自らの運命すら理解していない子供。
死期を迎えてもなお、殺されることも死の意味も理解せずに乳母に乳をねだる姿は、あまりにも見るに耐えず、処刑をする兵たちも子供らの眼を見る事すらかなわず、陽が沈み辺りが闇に包まれ、子供の顔が見えなくなるのを待ってから処刑されたのだという。
かつて、昭和の終わりまでこの地は首塚と呼ばれ、簡素ではありながら首塚堂という堂宇がたてられ、地域の里人によってひっそりと供養されてきた。
そして、この遺孤碑の周囲にはいつしか手水鉢や祠が集まり、ただ静寂だけが連なる川面の流れのように、ひたすら静かな時間だけが流れて行ったそうである。
しかし、時は大正から昭和、平成へと移り変わり、この哀話を語る人も徐々に絶えて、いつしか首塚堂は破却され、せっかく作られた由来板も読む人すくなく、新しく造成された駐車場の片隅で、生い茂った雑草の陰に投げ捨てられた空き缶を携えながらひっそりとたたずんでいる。
比較的最近に作られた由来案内板には、記念碑のような石碑とともに在りし日の遺孤碑が写されているが、いまとなってはその石碑も見当たらず、脇に備えていた石祠も見当たらず、ただ駅前の喧騒の中に雑草にまみれひっそりと建つばかりである。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
これは誰もが知る平家物語の冒頭であるが、武家の盛衰は世のならいとはいえ、まだ幼き子が次々へと処刑されていくそのさまは思い起こすだけでも非情であり、戦国の世に生きる事の悲しさと辛さが今なお思い起こされ、大河ドラマのような美しく恰好のよい話だけではない、実に悲しくも哀れな悲しみをふつふつと感じるのである。