京急神武寺駅を降り、駅前の県道205号線を北上していくと逗子市高齢者センターの脇にひっそりとたたずむうら淋しい沼地があり、これが通称「池子大池」と呼ばれる池である。
この池は今でなおこんこんと湧き水を出し、その流れは小さなせせらぎとなって池子川にそそぎ、かつては村人たちの貴重な水がめでもあったのである。
かつて、この池は現在よりはるかに広かったのだが、昭和57年に逗子市高齢者センター建設のために半分ほど埋め立てられ、県道の造成や開発を経て現在の姿となった。
当初は池の真ん中に祀られていた弁天様(水神様)は、水際の岩に穴を穿ち、祠を設けあらためて勧進している。
弁天様を遠くから見るとこのような感じである。
崖は木々に覆われ、よくよく目を凝らさないと見つけることすら難しく、平成も終わりに近づいた今となっては、そのお姿に手を合わせる人はどれほどいるのだろう。
現在では脇の県道205号線をひっきりなしに車が通り過ぎ、振りかえる者とてまばらな忘れ去られた池であるが、この地こそがかつて人々から恐れられた七つ頭の大蛇の伝説を今に伝える池なのである。
大蛇の話は全国に数多くあり、神奈川県の三浦半島周辺でも、三浦雨崎の大蛇を見ると熱病に冒されて必ず死ぬという伝説、横須賀の秋谷では鍬を飲み込んで死んだ大蛇の話、横浜市戸塚区では深谷町のまさかりケ淵の大蛇伝説など枚挙にいとまがなく、ここ逗子の池子大池にも大蛇の伝説が今なお残されているのである。
その昔は天平のころというから、西暦にして729年から749年。
時は奈良時代、今から1260余年の昔にさかのぼる。
その頃、この辺り一帯は見渡す限りの沼地であり、そのうえ人の背丈ほどもあるアシが生い茂り、その不気味さとわびしさから近寄る者すらなかった。
さらに、この沼には古来より恐ろしい七つ頭の大蛇がヌシとなって住みつき、しばしば村を襲っては人を食らうので村人たちはほとほと困り果てていた。
この噂を耳にした守護職の長尾左京太夫善応は、時の天皇に一刻も早くこの大蛇を退治し民を安心させるようにと奏上し、また部下や村の長老、名主までを集めて日々対策を練っていたが、事はいっこうに解決する事はなかった。
そこへ、ある旅の僧(行基とされるが諸説あり)が諸国を巡る旅の途上で逗子の岩殿寺や神武寺などへ立ち寄っていたので、この僧に大蛇の話をし退治できないものかと相談した。
話を聞いて村人の辛苦をあわれんだ僧は小さな十一面観音像をこしらえると、大池に浮かべた小舟の舳先に観音像を立てて自らも乗り込み、悪霊退散の祈祷を連日にわたり続けるのであった。
最初は周囲の人々もワラにもすがる気持ちでありながら眉に唾を付けて見ていたのだが、この僧の祈祷が連日に及ぶにつれ、ついに一陣の風が吹いたかと思いきやたちまち暗雲たれこめ、水面をやぶり轟音をたてて見上げるばかりの大蛇が七つに分かれた頭をおどらせながら、その姿を現したのである。
この大蛇は怒り狂い、人の丈ほどもある舌を火焔のようにうならせながら僧の乗った小舟に襲い掛かろうとしたが、さすがに観音の功徳にかなうわけもなく、やがて大蛇は力尽きこの大池に倒れ込み動く事が出来なくなってしまった。
すると僧はこの時にと大蛇のもとへ駆け寄り、大蛇に対して村人の苦悩やオノレの非道をこんこんと諭すと、大蛇はすっかりと悔い改め、今までの詫びに村の守り神となることを約束して息絶えて、跡形もなく姿を消してしまったのである。
そののち、村人たちはこの大蛇をあわれみ、守護職の善応は大蛇の住んでいた池の周囲に諏訪社を建立してお祀りすることとした。ところが、この大蛇は七つの頭があったので、頭を一つずつ祀る七つの諏訪社が建立された。
これが、今現在この地域で七諏訪社と呼ばれ、その多くは散逸し行方知れずになったものもあるが、そのうちの一つが今でも逗子のアザリエ団地から東逗子駅に向かう道端にひっそりと祀られているのである。
そして、大蛇の退治に使われた十一面観音像は、守護職の長尾左京太夫善応により長尾山善応寺という寺を建立されて奉納され、この不思議な仏縁と功徳に感銘した人々によって大切にされてきたというが、今となっては善応寺も名を変えて法勝寺となり、いまなお十一面観音像が平安時代のお姿そのままに、祀られているという事である。
この日、法勝寺を訪れたがあいにくご不在であったので、十一面観音について詳しくお聞きすることはできなかったが、いつの日か必ず再訪し霊験あらたかな十一面観音像のご尊顔を拝したいものである。
(郷土史資料より)
今、訪れるものも語るものもいない寂しげな大池のほとりに立つとき、時折聞こえる京急線の電車の音と自動車が走る音のはざまに、ただ恐れられ退治されていったあわれな大蛇と、日々恐怖の中に生きてきた無辜の村人の不幸がそくそくと思いだされてくるのである。