昨日、長細い箱が届きました。
なんか木の苗らしいが、なんだろう。
開けてみると「ウメ 杉田梅」の文字が。
そうでした。
子が産まれた記念樹として植えようと注文していた杉田梅の苗でした。
杉田梅の歴史は、はるか昔500余年の戦国時代までさかのぼります。
戦国大名北条氏の家臣であり、現在の磯子区杉田付近の領主であった間宮信繁公は、村民に副業として梅の栽培を奨励しました。その後江戸時代を通じて杉田を中心とした杉田梅林は日本屈指の梅の産地となり、梅干を運ぶ船が杉田の浜から絶え間なく出航したとされています。
間宮氏は主に笹下を本家とし杉田や氷取沢を領地としており、後世の子孫に杉田玄白や間宮林蔵を輩出した名族ですが、起伏が激しく谷戸がちな里には地を埋めつくさんばかりの梅が植えられていきました。
江戸からの観光客は、東海道の程ヶ谷宿から分かれる金沢道を通り、森または栗木を回って杉田梅林を訪れ、金沢八景の景勝地と合わせて観光を楽しんだ人も多かったようです。
妙法寺近くや妙観寺山(杉田八幡宮裏手の山)などには数件の茶屋が開かれ、ゆで卵やアサリ、酒などが販売され、特に梅の花びらの塩漬けをご飯に炊き込んだ「梅花飯」は名物の誉れ高く、土産物としては梅干しや梅びしお、甘露梅などが売られていたそうです。
明治17年と19年には英照皇太后と昭憲皇太后も観梅に訪れています。
明治の中ごろになると、塩害や樹の老衰により梅林は衰えを見せ始め、地元の人々の手により再興が試みられ梅の木の保存・移植や観梅客のための道路整備が行われました。
大正から昭和にかけては杉田公園が整備され、横浜市電も杉田まで延伸し、横浜市の定期観光バスのコースに組み込まれるまでになりましたが、時代の要請は宅地造成優先にとって代わられ、現在では「杉田梅林ふれあい公園」、「横浜市立梅林小学校」、「梅花山成就院」(寺院)、「杉田梅林バス停留所」などの名前に名残を残すのみとなりました。
また、小田原の曽我梅林に持ち込まれた杉田梅林の梅の苗が「杉田梅」と称され、今でも大切に育てられ、そこから里帰りした約100本の苗木は妙法寺の裏山で大切に育てられています。
元々梅は花も実も好きなので植えよう植えようとは思っており、どうせなら横浜に縁のある杉田梅を植えようと思ったのです。
しかし杉田梅は「幻の梅」と呼ばれるだけありあまりに希少すぎてなかなか入荷がなく、「入荷したら発送」という感じのまま3年が経ち、誰もが忘れた頃にようやく届いたのでした。
根は水苔で大切に守られています。
ツツジの間に植えました。
まだ「ただの棒」ですが、春に元気な葉を出してくれるよう願います。